《喜びは 生きてる子らに 共感し》

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 正月早々の晴れやかな報道の中に,親子や兄弟という家庭内トラブルの刃傷沙汰が紛れ込んでいるのは,気が重くなります。殺人事件の犯人の半数以上が親族であるという世の中になっていることを思い知らされます。かつての犯行は,行きずりではない場合,顔見知りは近所の人まででした。ご近所トラブルが高じてという場合です。今もなくなったわけではないようですが,親族までトラブルが高じることになるとは,先行きが心配です。
 ご近所トラブルの一つに,騒音があります。最近よく聞くのが,「子どもの声がうるさい」といった事例です。

 神戸市東灘区の保育施設近くに住む男性が「園児の声がうるさい」として,運営する社会福祉法人に慰謝料100万円と防音対策を求めた訴訟で,最高裁第3小法廷は12月19日付の決定で,男性の上告を棄却した。
 保育施設からの音について我慢の限度を超えているとは認められないとして請求を棄却した1審神戸地裁と2審大阪高裁判決が確定した。
 7月の大阪高裁判決は,保育施設は「公益性・公共性の高い社会福祉施設」だとし,「園児が裏庭で自由に声を出して遊び,保育者の指導を受けて学ぶことは,健全な発育に不可欠」と指摘していた。
(以上YOMIURI ONLINE 12月22日)

 待機児童問題の解決のために保育施設を作ろうとすると,近隣の住民による騒音や環境変化を忌避する声が湧き上がり,実現しないという事例が度々報道されていました。記事の事例は,そうした動きともつながる一例でしょう。「園児の声がうるさい」という個人的な感受性について,我慢の限度という社会的な許容範囲で判断がなされています。うるさいと感じる方が防音対策をすればいいのではということになるのでしょう。
 同じ園児の声でも,うるさいと感じる人がいれば,かわいいと感じる人もいます。園児たちと顔見知りであれば,頑張っているなと応援する気持ちになるのではと思います。子どもの声がなくなった地域が活気に乏しくなるという声を聴くことがありますが,そうであろうなと共感できます。子どもは見守る人々の未来です。自分とは無縁の子どもたちと切り離しているから,その声を無意味でうるさいだけの雑音に聴いてしまうのでしょう。
 社会的な許容範囲,その社会という認識が変質しています。かつては家族から近隣へ,地域へ,生活社会へ,無関係社会へと親密度の濃淡に対応して階層的に組み上がっていたアナログ的な社会が,今は自分と他者というディジタル的な社会に縮退しています。自分以外は皆敵対する他者という社会認識では,家族も近隣もなく,許容範囲や我慢の限度という歯止めは限りなく低められます。なんで自分だけが我慢しなければならないのか! そう思い始めているから,自分を社会から疎外されている被害者と錯覚していきます。誰もが我慢し許し合っている,皆同じように生きにくい中で健気に生きていると気づき共感することが大事なのです。

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(2018年01月07日号:No.928)