家庭の窓
|
ある記念大会の講演で,教わった話です。
「共生」という言葉のルーツは何処にあると思いますか? 実は今から250万年前,私たちのご先祖様が二足歩行を始めたのは,食料を仲間のところに持ち帰り,分け合うためだったという説があります。太古より人間は助け合い,ものを分け合って生きてきたのです。エチオピアのコエグという少数民族の村には,「ありがとう」という言葉が存在しません。できる人ができることをやり,貸し借りによって生きることが当たり前の共生社会なので,わざわざ「ありがとう」と言う必要がないのです。
講演では,今現在から今後に向けて共生する暮らしが求められているので,作り上げていきましょうという趣旨で進んでいきました。
ところで,この話は貸し借りがバランスしていることが前提になっています。してあげた分だけして貰えるという帳尻合わせが必須です。もしも,してあげた分だけして貰えないことが明らかであれば,しても損するという損得勘定が気になってきます。例えば,年金問題では,高齢者を支えるために積み立てても,自分が受け取るときには少子化の進行で貰えないことが当然という状況では,年金制度が危うくなっていきます。
暮らしのあれこれが取引になっている現在では,貸し借りがきっちりバランスしないと,契約を結ぶことができなくなります。それは,暮らしを成り立たなくします。損を承知で他人に手間や資材を提供する物好きはいないのが現状です。そう言ってしまうと,お先真っ暗です。
このバランス感覚を厳密に持ち出すことがないようにすれば,なんとかなるかもしれません。一つの試みは,暮らしの貸し借りについてはバランスすることがなく,常に借りの状態になると考えることです。お互いに借りているという後ろめたさを抱えて,できることを精一杯することで助け合いを続ける,それが生きていくことと信じることです。勤めている場合,給料分より少し余計に受け取っていると考えて,働きを余計にすることが,皆を働きやすくします。
下世話な例えをすれば,払い込んだ税金が取り戻せるかと言えば,払った分以上の税金を受け取っているのが現実です。毎日利用している道路が常に整備されている資金が,自分の税金で足りているはずもありません。便利な社会に暮らしているのは,皆がそれぞれ余分に受け取って借りていることになります。世間のお世話になっているという感覚が昔の人にはありました。豊かになった現在はどれほど生きやすくなったのでしょうか? 社会の豊かさとは,どういうものだと思われますか?
|
|
|