《暗闇が あって輝く 星光》

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 誠に唐突ですが,何かしら恐いものをお持ちですか? 災害や事故とか病気の類ではなくて,身の毛がよだつといった恐いものです。夜道を歩いていて恐いもの,肝試しで恐いものです。幼い頃,寝る前の夜中に行く田舎の屋外便所が恐かったものです。闇に包まれた下の方からニューッと手が出てきそうで,早々に用を済ませたものでした。
 最近の子どもは全く便所を怖がりません。何しろ家の中にトイレがありますからね。コウコウと照らし出された生活の中には,闇がありません。闇にはおぞましいものが潜んでいるという動物的恐れが薄れています。この暮らしぶりは闇の恐さを知っている大人たちが明かりをつけ回してきたという結果ですが,そこで育つ子どもたちは闇そのものを知らずに,そして恐れるということを心に刻み損ねていきます。
 お化けなどいるわけがないというのが現在の常識です。わけの分からない,得体の知れないマイナスの存在は否定されます。そこには救いとしての神のようなプラスの存在は必要ありません。精進したり善行を積もうという信心も生まれません。マイナスがないからプラスも消え失せて,心の拠り所を持てなくなっています。今日一日が楽しくあればいい,楽しくなくなったらもう終わりと見限ります。そんな若者が現れています。
 恐いものがいない,それはリスク管理にも現れています。用心を忘れた生活が不幸を誘発します。無防備というのは罪作りです。治にいて乱を忘れずという武将の言葉がありますが,恐いものを忘れないことが平和に暮らすためには欠かせません。
 恐いものは自分の心にも潜んでいます。台風が逸れたらよかったと思いますが,直撃した地方のことは我関せずです。悪意というほどのことではありませんが,きちんと気にしておいた方がよいでしょう。ところで,自分の心にどれほどの悪意が眠っているのか,測ってみたいものですね。
 道にお金が落ちていて,それを悪く言えばネコババする場合を考えてみましょう。コインだったらほとんどの人が懐に収めてしまうでしょう。一万円ではどうでしょうか? 百万円だったらおそらく誰しも警察に正直に届けることでしょう。さすがに百万円の悪意は持てません。では,十万円ではどうでしょう? 口では届けると言いながら,心では迷うかもしれません。誰にも見られていなかったら,どちらに転ぶか結果は分からなくなるでしょう。このつい出来心という境目がちょうど自分の悪意の限度になります。もっとも最近では,億の単位の悪意を自覚できない輩が目立っているようですが・・・。

(2002年1月13日号:No.94)