家庭の窓
|
新聞のコラムに,「150以上の国と地域で聞いた国連の2018年版世界幸福度報告書が発表された」とありました。「今のあなたの幸せは0〜10のどの段階ですか」と尋ねたようです。日本は54位だということです。150中の54ですから,中の上というところでしょうか。文章は,上位はこれこれ,同じ程度の国はこことこと,と続きます。幸せの基準は人に寄っても違い,文化や国民性にも左右されると話が進み,他者に寛容な国は幸福度が高いと,結ばれています。
改めて気になったことは,「国と地域」という言葉です。地球上に国ではないところがあるという再認識です。国ではない所に住む人は,○国民とは呼べません。特別に民族名称等がなければ,○○人と地方名で呼ばれるのでしょうか。国民という帰属意識を持っていない場合の幸福とは,どのようなものか想像したことがありません。日本国民であるという誇りは,幸福度とは無縁のものでしょうか?
二つ目の気になったことは,国連は何の目的で幸福度という指標を調べて発表しているのかということです。日本が54位ですよと示すことによって,どのような効果を期待しているのでしょう。54位だと聞いて,「あ,そう」としか反応していません。なぜ54位なのか検証しようとか,どうすれば順位を上げることができるか考察しようとか,上位の国に比べて何が足りないのか比較してみようとか,さらには,順位をつけることにどのような意味があるのか,一切気持ちが動きません。
満開のさくらの花の下で,見上げて幸せを感じているときがあります。澄み切った夜空に浮かぶ満月の光を浴びて,幸せを感じているときがあります。命を受け継いだ幼子の直向きな姿を眺めながら,なんとも言えない幸せを受け取っているときがあります。ぽつんと存在している人に幸福感はあるのでしょうか? 周りとの関わりの中に美しい価値を見つけているときに,幸福感という反応が湧き上がってくるようです。
現実的には,衣食住が満たされているという幸福度もありそうです。貧しさから裕福さという段階が一つの幸福度の目安ということになります。ただ,人として生きていることに関わる衣食住は,本能の充足という,幸福度とは異質の度合いと考えるべきです。幸福度とは,生き物としての存在価値ではなく,人間としての存在価値を自己確認する尺度です。だからこそ,貧しくても幸福であり,豊かでも不幸であることが起こっています。
先に触れたコラムの結びは,<幸福な人は幸福だから笑っているわけではない。笑っているから幸福になるのだ>でした。笑いは周りとの心地よい反応が起こったときに生まれます。幸福とはさみしがり屋なので,いつも何かと連れ合っているものです。周りと気持ちをつなげていれば,そこに幸福があります。
|
|
|