《喜びは 見習うものに 出会うとき》

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 3月から4月にかけて,年度終わりと始めの式典があり,ご縁があって参列する機会があります。卒業式の来賓席で、目の前の5年生の女子児童に何となく見とれていました。前を向いて座っている児童を真横から見ている位置にいました。堅い木の椅子に浅く座って,背筋を凜と伸ばし両手を膝に置いて,顎を引いて、真っ直ぐ前を見ている姿は,とても美しく感じました。その姿は卒業式が終わるまで,みじんも崩れることはありませんでした。ごく自然に,見ている自分も同じに座っていました。
 その後のいろいろな式典の場で,座る姿勢に気配りをしている自分がいます。参列している大人の方々を見回すと,椅子の背もたれに身体を預けています。その姿からは,背筋という言葉は見えてきません。ついこの前までの自分の姿がそこにありました。あの子の姿勢を我が身で再現しながら,式次第が進む時間を気持ちよく過ごしています。忘れていた背筋を思い出させてくれたことに感謝しています。ただ,この心がけがいつまで持続するかが問題ではあります。
 人の振り見て我が振り直せ,と言われます。他人の行動を見て,良いところは見習い悪いところは改めよということです。見習う相手は年上と,何となく思い込んでいますが,子どもの行動を見習うこともあり得ます。素直に喜ぶことも,大人はどこかに置き忘れていて,妙に勘ぐったりします。世知辛い世間を生き抜くためには必要な気配りですが,心底染まりきってはさみしいことです。心の奥は子どもを見習って素直でありたいと思います。
 サクラの花が散って,つつじや藤の花が咲いています。過ぎてゆく日を見ていると,もう3か月が終わったと勘定して,時間の進行の早さが感じられるという声を聞きます。子どもの頃は時間はもっとゆっくりと進んでいたというのです。子どもは今日を生きています。昨日や明日は,今日とつながっていない別の日です。時間が流れているのではなく,時間が今に止まっています。時間を忘れてしまうのではなく,経過という概念がないので,過ぎたとは思えないのです。一心不乱に打ち込みたいものです。

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(2018年04月15号:No.942)