《喜びは 神の目より 人の目で》

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 若い方の講演を聴く機会がありました。事実をそれなりに積み上げて論理も整理されていましたが,聞いていて落ち着かない部分がありました。何があるのか,聞きながら考えました。筋道は高度成長期以降の家族の形の変遷でした。建築専門家らしく,住居の形との関連で話が進んでいきました。時代ごとの特徴を説明する中で,それが政府や企業の意図で動いたというニュアンスが込められていました。誰かがそうしたというところに,違和感を感じていました。
 世の中の動きを,政府がこうしたからこうなったという話にはついていけません。限られた制度の話ならいざ知らず,世の中の有り様を支配することができるとは思われません。歴史を見ると,独裁体制で意図的な変化がもたらされることはありましたが,定着することはありませんでした。例えば,情報社会に変わったのは,誰かが意図したことといえるでしょうか。情報関連の企業が発展したせいですが,それは時代の変化を見抜いた起業家の慧眼と,技術発達の後追いです。
 知識とは基本的に後知恵です。後からは何とでもいえます。その曖昧さの中に,人の意図を紛れ込ませてしまうのは危険です。人が神様になってしまいます。人ができることはごく限られています。自分の人生を振り返って,思い通りになってきた人はいないでしょう。できない理由は,今の状況のなかでしか明日を考えることができないからです。世間は日々変わっていきます。5年先の世界がどうなっているか知らないのに,5年先の自分を考えることは不可能です。
 今の状況の中で皆ができることをしていると,状況は動いていくのです。スマホが現れて,皆が使っていくから,社会は変わっていきます。どのように変わっていくかは誰にも分かりませんが,変わった後になれば,スマホのお陰でこうなったと分かります。スマホの使いすぎが麻薬と同じ影響を脳に与えているなど,後から気付きます。
 こうしたからこうなったという論理で物事を考えていると,こうしたいという欲が出てきます。こうすればこうなるはずという思い込みも生まれます。しかしながら,現実はこうなりません。ことが動く要因は単純ではないのに,人が全て把握できていると錯覚をします。物事は走りながら考える,人の能力はそこまでです。後は神様仏様の世界です。

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(2018年07月01号:No.953)