家庭の窓
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情報集めの一環として,新聞の切り抜きをしています。聴覚障がい者の方が週刊で連載している囲み記事があり,すぐ側にある世界の様子をそうなのかと教えられています。今回の教えは,文章が苦手ということでした。特に助詞と接続詞の使い方がよく分かっていなかったというのです。その理由として,意思疎通の手段として,言葉や文章のように文字や単語を一言一句表現するわけではない手話を使うことが多いからと書かれていました。
手話のことは分かりませんが,手話通訳を見ていると,かなり簡略化し意訳をしているのではと感じていました。やはり助詞や接続詞は手話には出て来ないのでしょう。会合にお招きを受けて挨拶をするときに,側で手話通訳をして頂くことがありますが,なるべく日常的な言葉を選ぶようにしています。
この連載記事を朝に読んでいて,午後に手話に関する出来事に出会うことになりました。ある会合に出席して,記念としての講演を聞いている中でした。女性の講談師の方の講演でしたが,鉢の木という講談の一部を皆で声張り上げて読み上げるという流れになった折,本当の講談の一部を再現して見せてくれたときです。講演には手話通訳の方がついていたのですが,難解な漢字だらけの講釈に立ち往生されているようでした。講談師の方がその手話への翻訳不能な状況を,通訳泣かせであることを優しく打ち明けて,笑いを誘っていました。手話通訳は一言一句を通訳しているのではない,また通訳できないことがあるということを実感させられることになりました。
自分の名前を平仮名一字一字の手話で表現してみようとしたことがありますが,同じ手話が平仮名以外のことを表現しているようです。前後の続き具合でどちらの意味かを見取るのでしょう。そのこと自体は言葉が複数の意味を持っていること,例えば,はし=橋,箸,端となることからも違和感はありません。したがって,文章を全て平仮名書きすると,とても読みづらいというか意味を読み取りにくくなりますが,手話表現にもそのようなことが起こりそうです。
ところで,聴覚障害のある方は,漢字などの文字を読むこと,文章を書くこともできています。新聞に連載を書いておられます。音がないことの不都合は,抑揚やリズム感といった要素だと思われます。例えば,読点を打つという感覚を掴みにくいのではないでしょうか。事情不案内のままで深入りはしない方がいいので,勝手な推論は休止しますが,聴覚障害における障害の具体的な内容について考える第一ステップを経験したことは良かったと思っています。
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