《喜びは 育ち直しに 間に合うと》

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 会議出席のために乗った機内で,暇つぶしに読んでいた本に,ちょっと印象に残る一文がありました。「賢い人は見た事を喋り,愚かな者は聞いた事を喋る」。アラブの格言だそうです。この一文が差し込まれている文脈は,伝聞をおしゃべりするご婦人というものでした。
 格言は,見た事は直接確認している事,聞いた事は間接的な伝聞に過ぎない事,という対比であり,信憑性が問われています。おしゃべりを聞く方は,話す人によって,信じるか信じないか見極めなさいという警句です。「講釈師,見てきたように嘘を言い」という言葉を思い出します。
 最近の情報機器は映像情報が豊かになっているので,見た事が簡単に拡大していきます。つまり,間接的に映像を見た事が,直接的に現場を見た事と同じになるかどうかが問題になります。アラブの格言の時代とは,情報伝達の形が全く違っていることに留意しなければなりません。
 最近の出来事として,ある市長が職員を叱責する場面で「火を付けて捕まってこい」という風な言動が報じられて世間で騒ぎになり,辞職に追い込まれています。ところが,発言は理不尽な暴言でしたが,その前後で市民の安全を確保しようとする熱意と奉仕の覚悟が聞こえてくると,世間の受け取り方は逆に振れていきました。おしゃべりの一つである報道においても,部分を切り取る事の危うさを気遣ってほしいものです。現場にいる人がいきさつをどのように受け止めているか,それを眺めている傍観者はどう受け止めたか,そこに差異がある事を配慮しなければなりません。
 アラブの格言から学ぶ事がもう一つありそうです。賢い人は見た事を喋るという文を,逆転すると,見た事を喋る人は賢い人となります。同じように,聞いた事を喋る人は愚かな者となります。この逆転はあり得るのでしょうか。あり得ないとはならないようです。賢いか愚かかはその言動に表れるというのが普通ですが,逆に言動をどのように選んでいるかによって賢い人か愚か者かになっていきます。生まれつき的に賢さ愚かさが備わっているのではなく,日日の言動の選び方によって賢くか愚かかになっていくというのが,あり得るのではないでしょうか。まだ間に合いそうです。
 情報社会の中で,喋る行為が増えてきていますが,何をどのように喋るか,コミュニケーション力が問われてきます。いわゆる丸出しにならないように・・・。

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(2019年02月10号:No.985)