《喜びは 見守る人に 愛届け》

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 子どもへの虐待死に直面して,厚労省や文科省の対応が報道されています。幼い子どもを失うことは悲しいことです。社会の保護の網に綻びがあったということが一般の見方ですが,別のことを考えてみたいと思っています。
 野田市の栗原心愛ちゃんの事件の前に,目黒の船戸結愛ちゃんの事件がありました。いずれも愛という字が名前になっています。名付けの際に愛の字を選んだ親がどうして虐待に及んでいったのか,そこに怖さを感じます。二人の子どもについては,楽しく育っていたのかということも気になります。
 親の子どもに対する態度には,二つのタイプがあります。一つは,子どもの育ちを見守る態度です。もう一つは,子どをを育てようと見張る態度です。親が思うような子どもに育てようと,常に見張っていて,育ちがずれるとしつけを通じて働きかけ,やがてその程度が過激になると虐待になっていきます。子どもの育ちが親の育てに応えられなくなると,子どもの命が壊れてしまいます。
 親が子どもの育ちを見守ると,守られている中で,子どもは自分のペースで伸び伸びと育っていくことができて,無理をしなくて済みます。育つということは子どもにとって心地よいものです。したがって,育っている子どもは,楽しく育っています。もちろん,子どもが勝手に育つと放任するような,ただ見てるだけというのは論外です。守るということを抜きにしては,子どもの育ちに紛れ込む歪みを排除することはできません。
 子どもへの虐待だけでなく,DVという虐待も,好きだから,愛しているから,暴力に訴えてしまうという表現が選ばれてしまって,起こっています。自分の愛を押しつけようとするから,見張ることになり,手を出し過ぎていきます。
 愛は,相手を大事にすることが基本のはずです。見守るのが愛の行為であると,再確認して欲しいと思います。

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(2019年02月17号:No.986)