《喜びは 同じ秤と 知れたとき》

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 情報社会になって,人々の価値観が多様化しています。価値を見定めるときには,どのような秤を使うかが問題になります。金銭秤,気持ち秤,物量秤,あるいは理論的整合性といった秤もあるでしょう。価値観が違うという場合は,その秤が違うことになります。
 新聞の投書欄に嘆きの対象として引き合いに出されていたエピソードがあります。学校給食における,ある親の発言とその対応です。「給食費を払っているので,子どもにいただきますと言わせないで」という申し入れを,学校が受け入れたということです。投書された方は,この顛末がおかしいと感じられたのでしょう,何故学校がきちんと説明できなかったのかと嘆いていました。
 親の言い分は,お金を払っているので,給食はいただくものではなく,当然に受け取るべきものという判断によるもののようです。食堂で食事をする際に,いただきますという言葉が必要かどうかという感覚です。誰かにおごってもらうのであれば,いただきますと言うのは当然ですが,自分の金で買ったものにいただきますとは言えないのです。いただき物ではない給食に,いただきますと言わされるのは理不尽である,そういう価値の秤が使われています。価値の多様性として認知されるべきでしょう?
 食事の際のいただきますという言葉は,誰か特定の人から頂くという意味ではなく,食材や食事に関わった方や自然の恵みといった大きなものへの感謝を意味するというのが普通の解釈です。いただきますという言葉を載せる秤が違っているために,個人的な小さな秤ではあふれてしまって,測定不能に陥っているのです。言葉はTPOによって意味が振れていくことを知らないと,通じなくなります。言葉の多様性,それは価値観の多様性にリンクしますが,通じるように学習する必要があります。
 愛し合う夫婦の会話。「幸せかい? 幸せよ! あなたは? 幸せだよ!」。この夫婦はそれぞれに幸せを感じています。幸せの秤もそれぞれなのでしょうか? 「幸せだね! 幸せですね!」。この夫婦は同じ幸せを感じています。幸せの秤は同じになっています。同じ秤で暮らしていけるまでは,それなりの努力があるはずです。その努力は,二人が生み出した幸せの豊かさになっていると信じておきましょう。

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(2019年04月21号:No.995)