《楽しみは 流れに竿を 差す気付き》

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 福祉関係の新聞の囲み記事に,WHOによる健康の定義が引用されていました。検索してみると,以下の文章が目に入りました。
 1948年に発効されたWHO憲章では,前文において「健康」を次のように定義しています。「健康とは,病気でないとか,弱っていないということではなく,肉体的にも,精神的にも,そして社会的にも,すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」。
 記事では,この引用から,現状では社会的な健康への支援が見落とされているという指摘でした。かねてよりそこにつながる問題意識を持っていたので,引っかかったのでしょう。  なんとなく気になっているという状況を,この機会に整理してみます。
 健康を出発点にして始めるとすれば,人が人間らしく生きている状態を健康と呼ぶと定義しておきましょう。先ずは,生きている状態とは,肉体的に健康である必要があります。次には,人として生きている状態とは,もう一人の自分という存在の健康,すなわち精神的な健康が対応しなければなりません。その上で,人間としての健康には,社会的な健康が必須となります。福祉の世界で見るならば,日常生活に関わる運動ができて,意思疎通などの機能が保持されて,社会的な人間関係を遂行できる状況を,健康と見なすことになります。つまり,特別な状況ではなく,ごく普通の状況を維持するための支援,それが福祉の願いです。
 ところが,最近,社会的な健康というものが,少しおかしな状況になっているような感じがしています。いま,生活環境である地球の温暖化によって気温の変動がもたらされ,その影響で人の身体的な健康には熱中症という体温の変動を来しています。他方では,生活環境に登場した急激な情報化によって空間認知の拡張がもたらされ,その結果として人間の精神的な健康に関しては孤立化という自意識の変動が起こっています。つまり,認知させられるみんなの世間が急拡大した反動として,私という個人の存在が縮小してきたのです。人間関係の意識が「私とみんな」に二極化した結果,私という個の意識が強くなり,多様化した社会へ変容しています。
 その先に現れてきた社会は違いを優先する社会であり,○○ファーストが声高に言われたこともその一面です。社会が落ち着いた状態,人の優しさを維持するためには,相反する動きがバランスしなければなりません。それが多様性に対抗する包摂性です。人間関係が「私とみんな」に対抗している一方で,私たちという関係の構築をすることが求められています。

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(2025年08月10日:No.1324)