家庭の窓
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観光地の人出を報道する画面には,スマホを掲げて撮影している人が結構たくさん映し出されます。中には,道路中央に出て危険な状況になっている撮影者もいて、迷惑になっているようです。食事の場面でも,手をつける前にスマホで撮影しています。映像を記録してどうするのだろうと思っていますが,大事なことのようです。
ネットで「映える」と言うことがあるそうで,写真や動画,投稿も含めて,美しく目立ち,SNS上で注目や好評価を集めやすいことだそうです。特に「インスタ映え」という言葉から広まって,見た目の華やかさや調和が強調されています。
コメンテーターは,承認欲求を満たすことがSNSで簡単にできるようになったためと指摘していました。美しい風景を撮影したのは私,それが承認されたいことなのでしょうか。それとも,その場に居合わせた幸運な私を自慢したいのでしょうか。それとも単純に,きれいでしょう、きれいねと賛同を得たかったのでしょうか。
家族や身近な人に,幸せな時間経験を語るときに,スマホの写真を見せることで証拠を,感動のお裾分けを,改めて自己鑑賞をしたいのかもしれません。言葉だけでは伝わらない細部を写真で詳しく伝えることができる,そういう意図も撮影の手間をかける背景にはあるはずです。今の人は言葉ではなく映像で育っているのです。
記録として撮り置くということが直接の動機でしょう。観光地を訪れるのは,そこに居合わせる経験をすることです。その経験を後日再現したいのでしょうか。経験とは,観た聞いた感じたといった自らのその場での反応のすべてです。体験として残しておけばよいのではと思います。スマホで撮影することをしてみますが,見直したことはなく,メモリーの無駄になっています。
ところで,映像を共有できる環境にいると,言葉による表現は映えないものであり,必要最小限な使われ方になっていきます。その結果として,言葉を使う場面では,自分の思いを引き出すキーワード的な言葉だけとなり,受け取る方のキーワードにつながる思いとは異なってしまいます。つまり,言葉足らずの表現になっていくので,伝わらなくなり,誤解を招いていくことになります。感情のままの捨て台詞のように,そのつもりがなくても,相手にはそう聞こえてしまうのです。
表現の様式が変動している状況を経験しながら,その意味合いを整理し考えながら対応していきます。
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