《有難い 個と個の他に もう一人》

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 学校教育が難しくなっているようです。その要因の一つとして,負の価値観を子どもたちが持たされているという指摘が目にとまりました。親が,「勉強なんか何の役にも立たない。授業なんか聞かなくていい」と教え込んでいるためと説明されていました。価値の無いことには消極的になってしまいます。価値が無いというのではなく,負の価値ということは関わりを持ってはいけないということです。これでは教室にいられなくなります。
 さらに負の習慣が重なっているのだそうです。先生が「授業忌避の子どもを注意せず,なあなあにしてきた」というのです。言っても聞かない子どもに時間を取られていては,他の子どもが先に進めないので,やむを得ないという現実が窺えます。
 ちょっと目にしただけの一部分で判断してはいけませんが,子どもに対している親と先生の状況には,指摘された面があるのでしょうが,全部ではありません。問題になっている子どもについての考察でしょう。ただその人数がごくわずかではないところが問題となります。
 以上の論述に対して,あれやこれやと反応したくなります。まずは,子どもにとって「勉強なんか何の役にも立たない」と言われて,「そうかな」と素直に受け入れてしまうのか,子ども自身は学びの途中であるため結果は分からないとするのか,学校というシステムが存在する以上は何か有効なはずと信じてみようとするのか,子どもが今いる時や場所毎に受け止め方は多様になっているはずです。
 親にとっては役に立たなかった勉強であっても,子どもは分かることが今現在楽しいものであったり,共と学び合う刺激を味わったり,知識を得て能力が伸びているうれしさを感じていることもあるはずです。親が言うことを鵜呑みに信じて従ってしまうほど,子どもは単純では無いはずです。
 子どもの周りには親や先生以外の人がいるはずです。先ずは級友たちです。競い合ったり教えあったり,得意と不得意で立場を代える変化も起こります。兄や姉の立場にいると,勉強の面倒をみることで面目を保つプライドを感じることもあるでしょう。さらには,子どもの側には祖父母や近所のお年寄りたちもいて,学びに向かう子どもを機会ある毎に励まし応援しているはずです。授業や学びという営みはただ単に個人の知識の獲得だけであるという閉じた考察だけでは済まないものです。
 最近の世情分析では,人のつながりが外されているように感じています。ネット社会に包まれていると,すぐ側の周りには多様な人がいてつながっていることを意識できないままに排除してしまいます。自分の行動がその周りの人とつながって互いにうねり合っているという実態を見失っていきます。そのため,実世界での様々なつながりを想定できないでいるため,いざ現実で直面するとパニックに陥ります。この現実世界の活動は個人と個人の間だけで完結できるものではなく,周りという多様な関わりにつながっているのです。かつてのような人のつながりは縮小しているとはいえ,第三者たちを含めた社会の中で人は行動していることを想定しないと,判断を簡単化しすぎて不完全なものにしてしまいます。

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(2024年11月17日:No.1286)