《楽しみは 立つ足下の 支え知る》

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 農業で,畑や田んぼという土にあれやこれやの関わりをして,作物の収量を上げるという営みがされてきましたが,その人為的なお節介をやめても,土は健在であるという報告がありました。全くの素人なので,そのいきさつの意味や詳細は理解しきれませんが,何を求めるかという立場を振り返ると,現場の状況は大きく見直しができるということでしょう。
 人の営みの実情は環境に依っています。例えば,ある目的のために環境との関わりをすることがあります。調理や温度調整のために火を使おうとすると,その辺に生えている樹木を伐採して燃料にします。それが長く続くと,緑のない砂漠が出現します。存在していた樹木は,土地に潤いを与え,人以外の生き物にとって必要な環境資源であったものを,奪い去ってしまいます。樹木に薪のみの機能しか見いださない人の傲慢さが,環境を破壊していきます。
 人の自然忌避が進んで,人工空間でしか生活できなくなっています。汗をかくことが生きる機能であったはずなのに,汗をかかないことを実現しようとして,人としての生きる力を削減しています。広い自然世界の暮らしから狭い部屋暮らしになって,人の五感の機能も発揮しなくなり,視力や聴力も退化しています。環境のみならず,人体という生きる力の場も荒廃に向かっています。
 視点をズームインからズームアウトに転じてみます。地球と人類の長い歴史です。最近,地球温暖化という状況によって気候変動が喧伝されています。なぜこのような招かざる結末が訪れてきたのでしょう。温暖化は二酸化炭素ガスの濃度の増加に依り,それは人がエネルギーを求めてきた結果です。石炭や石油という炭素資源を惜しげも無く燃焼させることで,文明という価値を生み出してきました。
 燃焼というプロセスが生み出したのが二酸化炭素です。地球の長い歩みの中で,炭素は石炭や石油という形で地下深く隔離されることによって,現在の地球環境が生成されていました。人が生活できる温暖な地球環境であるためには,石炭・石油は封じ込められているはずのものでなければなりませんでした。膨大な炭素が地下に埋没されていなければならなかったのです。それなのに人は燃料資源と勘違いして,無邪気に封じ込めから解き放ってしまったのです。折角地球が良い環境を作り出してくれたのに,とんでもない勘違いによって,無にしているのです。自業自得の顛末に気付く智恵を持てない愚かな生き物であったことになります。
 ある一つのことを求めたいだけで何か新しい事象を持ち込んでしまうと,その事象は思いがけない多様な変化をまき散らします。一つのことが一つのことだけにつながっているのではありません。昔から言われている,風が吹けば桶屋が儲かるという,巡り巡っていく連鎖現象が発生します。ある一つの行動がさまざまな効果を生み出していく,そのことは今の環境が複雑な相互連関で組み上がっていることを明示してくれています。人が手を加える,それが限定的であれば自然の包容力でカバーできますが,度を過ぎると自然が壊れることもあります。

 人は目の前のことを何とかしようと手を加えます。一人一人の営みは地球にとっては些細なことですが,一斉にそろって長い期間に為されると,環境の変化を招きます。それは,前提としての環境が根こそぎ変動することになります。普段目にしている景色に変化が見えているとき,その顛末に思いを巡らしてみることです。

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(2025年07月20日:No.1321)