《楽しみは 他の思い聞き 自を思う》

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 ネットのニュースを眺めると,外国からの観光者による日本の感想を取り上げているものが増えているようです。当人には当たり前な状況が,来者には驚きや不思議に感じられることとなり,再確認する機会になっています。その一つの例が、街がきれいでゴミが落ちていないという声でした。普段から、ゴミは持ち帰るという生活がされていれば、当然の帰結です。ただ,街にゴミが溢れているという生活をしていることが当たり前もあり得るのです。
 生活する上では食料を初めとしてさまざまなモノを利用し消費し選別し廃棄します。必然的にモノは生きる機能に関わった後にはゴミ化していきます。生活はゴミを出すことで営まれているのです。そのゴミは生活から排除されそれなりに処分されることが必要です。その一連のプロセスが完結してこそ,生活が維持されるのです。食べ散らかして済むという生活は,自然な循環が機能できる世界に丸抱えされている人の生活様式であり,街という空間では場違いな生活になります。ゴミは処理システムに各人が持ち込む手順を生活の一部とするのが,街なのです。郷に入っては郷に従えという故事が適応されなければなりません。
 人が生きる営みは何かを得ることですが,自然の収支原則に従えば,何かを失うことを伴います。損得はゼロになるのです。その原則は全体に対して適応されるので,個々については損得が割り振られることになります。ある人はゴミを捨てたままで生きられ,他方でゴミを拾って生きていく人もいます。同じ状況がたくさんあります。モノを受け取る人がいれば,モノを届ける人がいます。料理を食べる人がいれば、その料理を作る人がいます。
 人が生きる状況は,生かされている状況が付随していることを自覚しておくべきです。私は生きている一方で,他を生かそうともしているのです。その気付きは,私たちが生きるという認識になるはずです。街で生きる,それは私たちの街という自覚と実践によって可能になります。

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(2025年04月13日:No.1307)