《有難い 言葉を使う こつが見え(8)》

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 言葉を覚えることは心の食事です。どのような種類の言葉を覚えて使うか,それが心の活動になり,人としての品格を表します。人権宣言において,人は理性を持つと謳われていますが,それは言葉を獲得したことから得られたものです。その言葉を共有することができると,相互理解が進み,共生することが可能になりました。そうして,人それぞれの間がつながって,人間という社会人が登場しました。

 「この仕事 皆でやろうと 人に投げ」という川柳が,以前のサラリーマン川柳にありました。みんなの中に読み手の私は入っていないのです。大勢の人を前にして「みんな 元気ですか」と言っている私は,みんなの中にはいません。子どもの頃,友だち皆と同じいたずらをして言い訳をすると,皆のことはいいの,あなたが悪いと叱られていました。
 スマホから目を離せなくなっている人たちが目につきます。歩いているときも画面を見ていて,足元を見ていません。画面の先に居る人たちであるみんなのあれこれを覗いているのは,ひとりぽっちの私なのです。すぐ側に居合わせている人たちはそれぞれのみんなに見とれている孤独な人たちです。画面の中のみんな,それは私が選り好みしている限られたみんなです。見ている私と,見られているみんな,人間としての間はどうなっているのでしょう。
 中庸はそれ至れるが,民よくする無き久し。中庸は最高の徳だが,一般人は実行できなくなって久しいということです。歴史は繰り返すといわれますが,その言葉も思い起こすべきです。中庸の基本的な意味は,極端に偏らずバランスを保つことです。中庸の考え方は,選択肢を増やす助けにもなります。例えば,何かを決める際に二つの極端な選択肢しかないと思いがちですが,中庸を考慮することで第三の道を見出すことができます。私とみんなの間にある中庸を表す言葉を探すことが大事です。
 金子みすゞの詩に「鈴と,小鳥と,それから私,みんなちがって,みんないい」とあります。そこでは,私をみんなの中にきちんと登場させています。それでもこの言葉の一部を切り取ってみんな違っているという多様性の概念を個性的な私であっていいとだけ認識する最近の個性尊重を重視していく中では,私ばかりに意識が止まっていき,みんなのことが想定外になりわがままに向かっていきます。みんなの中の私として同じである意識を持てなくなってしまいます。その帰結として最近の集団意識の衰退傾向に関連していると推察されます。
 みんなとは誰かのこと,私じゃない,その意識が地域社会を衰退させていきます。例えば,PTAが壊れ,子ども会が減っていき,町内会も参加拒否されています。そのような人離れに危機感を感じている人が,共生社会という言葉を持ち込んできます。福祉の場では,我が事という言葉で地域に住む人がつながりを持つように啓発が進められています。つい最近まで私の居場所であった地域社会は,人の移動による混在が進むにつれて,みんなの居場所に様変わりしていきました。至る所で無縁化が蔓延っているという状況です。
 私とみんなの間を埋める意識が機能していませんが,それは私たちという中庸の言葉を忘れていることです。みんなの地域として突き放す前に,私たちの地域としてのつながりを間に挟むことが急務です。そのためには私とすぐ側にいるあなたとの間に共通点を見つけることができると,私たちという言葉でつながることができます。聖徳太子が選び抜いた和という言葉の大事さを思い起こせば,和とは同じであるから可能なのです。同じところがある私とあなたたち,その先に私たちという言葉が息を吹き返すはずです。今のように多様性という違いにだけ拘れば差になるしかなくなるのです。

 言葉は登場する場面で生きていますが,その場面は一つではありません。同じ言葉が全く違って見える場面でも使われています。その言葉に導かれて違った場面をつないで見ると,世界の面白い理解に辿り着くことができるでしょう。

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(2025年01月26日:No.1296)