*******  平面的無時間思考からの救出  *******

〜 いまどきの若者を読み解く 〜

【1】 平面的思考
 面と向かっては話せないが,携帯でなら話せるらしい,そんなことを伝え聞きます。このことから読みとれることは,言葉に付随する背景,つまり表情や場所,雰囲気といった情報が邪魔になるということです。言葉が持っている深さや含意などは洗い流されて,上澄みのメッセージだけに用があることのようです。すなわち,実体的な言葉を平面に投影した影絵的な言葉にしないと受け付けない体質になっています。

 国語力の低下が心配されています。その原因として,本を読まなくなったという調査結果があげられます。この推論もまた平面的です。本を読まないということは国語力の低下と同一次元にある事象です。因果関係にはなりません。原因は言語の質が違っていることです。若者の身につけている言語と国語力である言語とは違っているという点に注目しなければなりません。
 言葉とは本来記憶化されている人の体験を意識世界に引き出すラベルです。恋を経験したから恋という言葉が意味を持ち,恋をした経験者に通じます。体験という根っこ,それは言葉の深みであり厚みであって,それ故に言葉は立体的,三次元的です。恋という言葉には,切なさ,甘さ,若さなどの要素が含まれていて,一つの塊となったイメージを紡ぎ出します。それ故に具体が抽象性を帯びるということができます。この深みによって,他の言葉とのつながりを可能にします。つながるから文章が書けて,文章を重ねることでさらにイメージを構築していけます。言葉がレンガ状になっているからです。

 一方で,若者はつきあう,Hするといった直截な表現を好みます。単刀直入と言えばそれまでですが,その表現には深みがないので,他の言葉とつながりません。恋文といったような複合語はもちろん作れませんし,文章にもなりません。単語としてしか使用不可能です。言葉が点状あるいは平面状ですから,まとまったイメージを構築することは無理です。メール文化によって言葉の短縮化が一層進み,言語空間の縮小化も重なってきました。異年代には通じない言葉によって若者世界はスライスされていきます。これもまた平面化になります。
 文章表現は,言葉をどのような順番で並べるかによって,一つのイメージを作り出します。文章の句読点が現れるまでは,一つ一つの単語を一時記憶しておいて,文章全体で意味を理解しなければなりません。言葉の溜が必要であり,最後まで聞かないと分からないのです。その間は理解を一時停止して,言葉のつながり方に神経を集中することが求められます。句読点になって,一気にイメージが開きます。文章の中で言葉がそれぞれつながりに相応しい自己主張をしていきます。その点で,単語表現はわがままな自己主張をします。
 ムカツク。それはただの気持ちのあくびであり,メッセージはありません。大人はそこに意味を見つけようとしますが,言っている側には意味を伝えようとする意図はないので,意味不明です。若者は意味を伝えることを知りませんが,それは意味を受け取ることに失敗した後遺症です。物心ついた頃よりテレビに言葉を習ってきました。テレビで流れてくる言葉は形態的には「捨てぜりふ」です。勝手にポンポンと放り出されてきます。聞きたければどうぞ,という態度です。聞く方も,勝手にしゃべっているというつきあいです。テレビの中から「おはようございます」と挨拶されても,こちらは完全に無視します。ブラウン管の向こうにいる発信者の意図をテレビ画面という平面性が封じ込めてしまい,同時にこちらの意図もブラウン管にはじき返され向こうには伝わりようがありません。言葉とはどちらの世界にもつながらない平面的なものと刷り込みされてきました。

 他者とのつながりを求めるときに,言葉は意味を相手の記憶の中から引き出そうと働きます。おはようございますという挨拶の言葉は相手に対して関心を持っているというメッセージであり,その関心に応じる意味で挨拶を返します。だからこそ,言葉がコミュニケーションの道具になり得ます。平面的な捨てぜりふには相手に向けたメッセージはありません。その言語感覚を持つ若者は,他者へのつながりの持ちようが分かりません。自分以外の人は,テレビの前の視聴者と同じであり,何のつながりもない人でしかありません。
 言語世界の平面性が,他者との関係を隔離状態と意識化しています。第三者という離別化をさらに進めて,完全無関係な第四者にまで後退しています。その感覚世界から,「人が壊れるのを見たい」という発想が生まれてきます。思いやりの片鱗もありませんが,それは不思議ではありません。人の心は人により添ってこそ伝わり育まれていくものです。他者との間に無機質な平面を介在させているので,その伝達路は遮断されています。影絵でしかない他者と交信することはありません。心の共育ちが拒否されていれば,思いやりは生まれようがないはずです。
 他者への思いやりが持てない立場にいる若者は,自尊感情も欠落しています。自己に目を向けるような機会に出会ったとき,自己を肯定できる拠り所を持っていないことに愕然とします。自己とは何か? その存在感とは孤立していても可能な絶対的なものではありません。人の存在意義の自覚とは相対的な価値に依拠します。若者の行き着くところは,自己否定に向けて一直線です。かろうじて数少ない友人らしき人とのつながりに頼って踏みとどまってはいますが,傷つきやすくてもろくて,理想的であろうともがきます。理想的というお墨付きがあれば,他者の存在を必要としない唯我独尊の境地に入れるからです。しかしながら,理想は現実世界には存在しません。自ら理想をなし崩しにせざるを得なくなり,狂気か破滅の淵に押し流されていきます。

 情けは人のためならず。情けを掛けるのは相手を甘やかすことになるのでしてはいけない,という解釈が若者に蔓延っています。そのような高みからの解釈,相手を甘やかすから相手のためにならないという傲慢さは,第4者の特徴です。まるで自分が人の上に立っているような感覚は,自分を失っている証拠です。言葉は自分の立場から発するものです。立場を失ってしまえば言葉は死にます。確かに相手を気の毒と感じる思いやりには一度は相手の立場に移る手続きが必要です。その上で情けを掛けるのですが,それはあくまでも自分の気持ちから出るものです。相手にとって掛けた情けがどういうことになろうと,それは情けを受けた相手のことであり,自分が関与すべきことではありません。助けてあげたいという自分の気持ちだけでいいのです。ところが,若者は妙に解釈的色合いの濃い知識に染まっているから,自己さえ解釈する立場に遠ざけざるを得なくなっています。相手が可哀想であると感じるのではなくて,可哀想であると知識的に観測しているのです。情けは人のためならずとはあくまでも自分だけが関わるべき言葉なのに,第4者がしゃしゃり出てしまっています。

 嗜好の世界では,凹凸を嫌い,のっぺりした感覚,すべすべ感を好みます。毛濃いくて,ザラザラした感触を避けようとします。それは正に理想的な平面である鏡面の特徴です。出っ張りや手に引っかかりを与える突起は,二次元世界にはありません。それは三次元軸上にあるものです。ブランド志向も見られますが,違和感に全く頓着していません。選び抜かれたブランド製品は,洗練された身だしなみの部品として意味を持ちます。その機能を弁えずに自らに張り付けて粋がっていますが,実のところブランドが影絵にすり替わっていることに気付いていません。三次元軸上では,若者とブランド製品は完全に場所が離れています。それでも二次元に投影すれば重なっているように錯覚できるのです。

 以上述べてきたように,若者が持っている意識世界,思考世界の特徴は,言語世界の奥行きや深み,人間観における他者の実像の膨らみ,思考世界の遠近感などに共通する第三次元を欠落して,平面的になっていると結論することができます。