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【2】 無時間思考
平和の持続というのは平衡状態であり,時の概念が意味を失います。日常感覚で言えば,昨日も今日も明日も同じであり変化が失われることです。天災は忘れた頃にやってくるという警句は,時間の経過を見過ごすことへの危惧を表しています。時間無視を基本とする思考が蔓延ることへの懸念です。
若者は若者でありながら,年下の年代に対して自らを年寄りと規定するそうです。時の移ろいを知らないわけではありませんが,その移ろいの中に自分もどっぷり浸っているという実感を失っています。第4者としての立場は,自らも実体世界から浮遊していると信じ込ませます。自分が在ると思っていた場に別の年下グループが居座っていることに直面して,知らない間に引っ越しさせられていたことに愕然となっています。正に浦島太郎の状態です。
若者の理科離れが心配されています。これは本来技術世界から出された危惧ですが,それだけに留まらないもっと根深い禍根が膨らんでいるのです。時間軸上にある思考は,順序づけられた概念です。こうしたらこうなるという論理は,時間軸上の因果という順序です。理科を忌避するとは,時間の経過を認知できないという資質から派生しています。複数の事象がお互いに関連性を持って順序よく移ろうという思考ができないのです。
人の話を聞かないという指摘もあります。授業をおとなしく聞けず私語ばかりすると語られます。授業で話される言葉と若者が聞き取れる言葉が異なっているために,話が通じないせいです。先生が何を言っているのか分からないのです。簡単に言えば,先生の言葉は論理の運びに沿って順番に並べられているのに,聞き取る方は順序というステップを持っていません。したがって,話の歯車がかみ合うはずもありません。
国語力の低下と関連した小説が読めないという指摘は,別の側面からも検討されるべきです。言葉がつながることで文章になります。その文章が前後の順序関係を保ちながら,情景の変遷を描き出します。小説を読むには,順序よく積み上げるという時間軸上の作業が必須です。時間軸が脆弱な思考回路では,経過が重複してしまい,意味がごちゃごちゃに混ざってしまい,雑音的な情景に様変わりしてしまいます。知的な関心が乏しいという若者気質も同根です。知的とはやはり意味の順序づけられた配列を基本とするからです。当然グローバルな思考の構築や展開などは望むべくもありません。
従来の学力が記憶型であったという反省があります。今反省しているということは,今の若者の学力は記憶型として育てられてしまったということです。同時に,反省とは単純にいえばこれまでが間違っていたという気付きでもあります。若者を育て間違ってしまったのです。どこがいけなかったのかを明らかにすることが真の反省です。知識は記憶されます。その点では間違ってはいません。例えば,「権利と対句になるものは?」という問題を出されたら,それは知ってると反応し,「義務」と答えることができるでしょう。丸をもらって,できたと喜んでいます。権利と義務という対句を知っていますが,言葉として知っているだけで,意味は怪しいものです。それは若者たちの行動に表れています。
知識は多くの場合,「AはBである」と解釈される形式を取ります。定義づけという重要な形式ですが,注意をしないと,それは単なる言い換えに過ぎなくなります。若者の文章が見せてくれる,そして,つまり,また,などで続けられていく傾向とは等置の重複です。文章に展開が無くて空滑り状態です。ダンスの振りに歩いているような動きをしながら一歩も前に進まないという仕草がありますが,全く同じなのです。
知識は言葉によって思考実体になり,それは元来時間軸上に配置されるべきものです。順序感覚を失った言葉の羅列は,論理の展開が欠けるために思考にはなり得ません。物事を理解するには,順序を抜きにしては意味を見落とします。最も基本的な生活信条であるはずのギブアンドテイクという言葉を考えながら,若者が順序概念を失ったために社会から遊離してしまった経緯を以下に例証しておきます。
人間社会はギブアンドテイクが原則です。若者はこの原則を全く理解できていません。理解する素地を持ち合わせていないのです。江戸時代にネズミ小僧という義賊がいました。大店の蔵から小判を盗み出し,貧しい長屋の衆に恵んでいました。ネズミ小僧のやっていることは,テイクアンドギブです。大事なことは順序が逆になっていることです。テイクだけならケチな泥棒ですが,かろうじてギブを付け足していることで義賊と呼ばれたわけです。ところが,この逆の原則は闇世界の原則であるために,泥棒に変わりはありません。このようにギブが先であるという順序に重大な意味があるのです。
ネズミ小僧が蔵から去るときに呟くであろう言葉は,アリガトウのはずです。夜中に小判をばらまくときにはドウゾと言っているでしょう。テイクするときの言葉がアリガトウ,ギブするときの言葉がドウゾなのです。若者は幼いときから豊かな育ちをしてきました。大人から何かを貰って,アリガトウを素直に言えるように育ちました。アリガトウは待っている言葉であり,順序として第一声にはなることは不可能です。
アリガトウを言える若者は,待っているしかありません。待っていても適えられないままに置かれると,万引きに走ります。そのときに,アリガトウと呟いているはずです。自転車窃盗,ひったくり,車上狙い,恐喝など,若者がしでかす非行のパターンは全てアリガトウとテイクすることです。闇の原則を身につけてしまっています。つきあいにも同じ傾向が現れます。してもらうのを待っていて,してもらったらアリガトウと言えます。待っていることしかできないから,人づきあいが苦手になります。アリガトウと取ることしか知らない者とは誰もつきあいたいとは思ってくれませんから,浅いつきあいしかできません。順序が逆だからです。
ドウゾが先であると分かっていたら,非行は起こり得ません。献血率の高い地域では非行者率が低いという相関があることは,その証拠になります。ドウゾの言葉は第一声になり得ます。どんな人とも関わりを始められますし,喜ばれる関わりになります。つきあうのが楽しくなるはずです。世の中はドウゾという人が動かしているのです。ドウゾと言える人が,生きている人です。アリガトウを言える人は生かされている人,場合によっては奪う人です。
権利と義務という言葉にも順序があります。ギブである義務が先行すべきなのです。テイクである権利はギブが出そろうまでは,待っていなければなりません。待てないとなったとき,それは収奪に成り下がります。思いやり,優しさ,福祉にボランティア,およそ望ましいと考えられている行為は,全てドウゾから生まれ出るものです。権利と義務,その言葉の並置しか見えない無時間思考では,自らに有利な権利の主張を本能的に優先するのは当たり前のことでしょう。そのワナに捕まっているのが,若者の悲劇の根元です。カードの落とし穴も,テイクを優先しているせいです。
感性を優先するという生き方が選ばれています。本能的な感性とは今ここにしか存在しません。昨日の感性は気の抜けたビールと同じです。とはいえ,感性といえども,実は時間の経過の上で流れていくことで,クライマックスを構築できます。ギャグのような瞬間感性にしか反応できなくなると,それは単なる刺激に堕落していきます。かつての落語や漫才のような流れを持った芸を楽しめなくなっているのは,言葉の順序性に対する人間だけが持ちうる時間感性を喪失しているからです。
以上のように,若者が言葉の助けで認知している物事は,言葉の不備を反映していびつに変形されています。色眼鏡ではなくて偏光眼鏡をかけているのです。言葉の欠陥により事象が平面的,無時間的に観測されてしまい,自らを第4者に置いていると結論することができます。
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