*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【桃太郎の真価?】


 昔から,仲のわるい間柄の比喩として犬猿の仲という言葉があります。ところで,その犬と猿が桃太郎の話の中では雉と共に仲良くお供をしています。そこで,犬と猿は仲がよいのだと考えざるを得なくなりますが,その推論はあまりに表面的にすぎます。仲の悪い犬と猿をお供にした桃太郎の真価が失われます。犬は桃太郎と吉備団子で結ばれました。次に猿も桃太郎と吉備団子で結ばれました。つまり,犬と猿は桃太郎とのつながりを大事にすることによって,桃太郎一家になることができました。桃太郎のリーダーとしての役目が十分に発揮されていると考えることができます。
 因みに,12支による方位表現によると,申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)は西方に当たり,西方浄土の方角に重なります。さらに,桃太郎の桃は桃源郷の言葉から推察されるようにユートピア=極楽=西方浄土に結びついてきます。このような因縁を考えると,桃太郎のお供は犬・猿・雉でなければならないということになります。
 毛利元就が息子たちに示した三本の矢の教えも,日頃仲がよいとは言えない三兄弟を元就という紐で括り束ねると強くなるということに思い至ります。
 世間における仲のこじれた人間関係を集団生活の中で治めていく知恵を,桃太郎に学ぶことができます。双方とよしみを持つ第三者が間に入るということです。昔はご隠居さんというまとめ役が地域社会の要として機能していたのも,同じスタイルです。現代は,そのような役回りを担う人がいなくなり,犬猿の仲が放置されています。桃太郎はもう現れないのでしょうか?
 人権相談を受けていると,双方によしみを持つ人がいればよいのにと思う場合があります。ことさらに仲の悪さ,トラブルにこだわってしまい深みに入っているように思われます。相手を信じようとしない状態では,争いごとは膠着するしかありません。裁判のような合法的な衝突に向かうしかないようです。双方にとって信頼の置ける第三者が相談者の身近に見つからないのはとても残念なことです。
 人間関係が個人と個人に限定されて意識されている所に問題があります。人は社会的な動物という定義がありますが,社会とは3人以上の集団を意味します。良くも悪くも三角関係が基本になります。個人化により,親子,夫婦という二人の関係が主軸になり,3人以上の家族という社会意識が後退している傾向を見ると,総じて社会的な人間関係が希薄になっていると考えざるを得ません。
 相談をするときに誰にするか?という問いに,「知らない相談専門の人に」という答えが返ってきます。近くの人には打ち明けたくない,知られたくないという気持ちは,既に近くの人によそよそしい思いを抱いているということです。側にいるのに個人的にバラバラに生きているのです。そのような状況では,双方とよしみを持つ人は現れようがありません。裸の王様の生活をしているのであれば,問題解決に最も近い人物による効果的な手助けなどを期待することは無理になります。相談解決とは当事者が住む社会において効力を発揮するものだからです。
 公的な機関が受けている相談は,公正であることを最優先とするので万人向きですが,一方で,限界も抱えています。公正であるという根拠が法律などにより明らかでない場合,受け付けられないことも起こりえます。話し合いで双方が折り合うという曖昧な決着しかないようなこともあります。現実は多種多様で,解決は一筋縄にはいきません。
 少子化は子どもたちの社会感覚の育ちに対して影響しています。3人以上のきょうだいの中で生活していると,お兄ちゃんやお姉ちゃんが育ちます。幼い兄弟がけんかをしていると,その辺で止めておくようにと仲裁に入ります。兄弟という社会を治めていく経験を身につけます。学校でいじめなどが起こると,同級生であっても家ではお兄ちゃんやお姉ちゃんである子どもが,その辺で止めるようにと歯止めを掛けることができます。それを支持する他のお兄ちゃんやお姉ちゃんが少なからずいるからです。子どもの世界の桃太郎はお兄ちゃんやお姉ちゃんなのです。少子化はやりたい放題の弟や妹だけを育てていることになり,子ども社会の治め役を失わせているのです。
(2007年06月06日)