*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【伝わっているか?】


 秋深き 隣は 何をする人ぞ。芭蕉の有名の俳句です。都会人の隣人との交流がない暮らしぶりを比喩するために,引き合いに出されることがあります。芭蕉は苦笑していることでしょう。旅の宿で隣の部屋に誰かが入ってきました。秋の静寂が深まるとき,隣の人は何をする人なのかなと気になる心情を詠んだものなのです。全く逆の意味を持っています。どうしてこんな誤解が生じるのでしょう。
 講演を頼まれることがあります。いつも最初に話すことがあります。「私はこれまで連れ合い以外の女性とキスをしたことがありません」という自己紹介です。突然場違いなことを聞かされて,一瞬流れが止まり,その後静かに和みが訪れます。そこで話を始めます。「皆さんは今の自己紹介をどのように受け止められましたか? のろけを言っていると思われた方がおられるでしょう。愚痴っぽいなと思われた方もいらっしゃるでしょう。嘘だと直感したつもりの方もおられると思います。私は皆さんに同じようにお話ししました。でも,受け取り方はそれぞれであり,必ずしも一致しているわけではありません」。
 「伝えた」と「伝わった」とは必ずしも一致しません。どうしてこのようなすれ違いが起こるのでしょう。初対面のように,お互いの人柄を知り合っていない場合では,ごく普通に起こります。話し手の思いは伝えられた言葉には乗りません。聞き手は言葉だけを受け取り,解釈には自分の思いを重ねます。聞き手が勝手に解釈するしかないのです。自分の身に置き換えて聞くということです。そこに誤解が紛れ込みます。少なくとも同じ体験がなければ,言葉は伝わりにくくなります。
 人様から悩みのお話を伺う立場にあるとき,聴いている自分にきちんと伝わっているのかと思うことがあります。事実は受け止めることができても,その方が感じている重みの程度を測りかねるからです。同じ事実でも,「その程度のことで」と済ませる人とそうではない人がいます。背景となるその他の事情に大きな差があるからです。ひとつながりになっている全体を感じ取らなければ,寄り添うことはできません。ただし,その先は無力感を味わうことになるしかありません。まるごと引き受けることができないからです。対処療法,それが精一杯できることです。
(2007年09月02日)