*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【程がある?】


 川柳には,自分の至らなさをえぐり出して笑ってみようという明るさがあります。未熟な自分に向き合い,しようがないなといったん諦めることで,自分を生かそうとする出発点に戻っていきます。川柳という文芸が受け継がれている背景には,汝自身を知れという言葉に通じる自省の伝統がうかがわれます。
 「なぜだろう 私がいないと うまくいく」(サラリーマン川柳)。真面目に一所懸命にしてくれているのですが,周りには何かしら不調和をもたらしてしまう方がおられます。
 あるご婦人が実家に帰っていたときのことです。朝起きて家の前の道を掃除をしているとき,ついでだからと隣のおばあちゃんの家の前もきれいに掃き清めました。そのことを聞いた祖母が悲しそうな顔をしました。翌朝,家の前がきれいに掃除をされていました。隣のおばあちゃんが早起きをして掃除をしてくれたのです。親切もいき過ぎると,相手には負担になりお返しをしなければという気持ちに追い込むことになります。祖母にはそのことが分かっていたのです。
 隣の三尺という言葉がありました。隣家の家の前に三尺まで入り込んで掃除をするという暗黙の了解です。自分の境界までに限るのではなく,相手の領域に少しだけ入り込んで重なりを作っておくという共同生活の原則です。絆という漢字は半分の糸と書きます。お互いが半分ずつ出し合うことで結ぶことが出来ます。小さな親切が大きなお世話にならないためには,三尺という距離を見計らうことです。相手の領域を侵さないような気遣いができれば,人間関係は円滑に営まれることでしょう,
 「親切の 後ろ姿に お辞儀する」(万能川柳)。お辞儀をするとき,どうして頭を下げるのでしょう。かつてモノを頂くときには,謝意を表すために手に取って頭上に捧げていました。頂くという言い方そのものでした。ところが,親切のように手に持てないものは,頂くために頭頂をそちらに向けるように下げなければなりません。最敬礼のつもりで直角にまで曲げると折角頂いたモノが落ちてしまいます。落とさない程度に頭を下げる,それが美しいお辞儀になるようです。
(2007年10月07日)