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【言葉の後ろに?】
プロ野球の試合でホームランを打った選手をベンチの選手が出迎えるとき,手のひらでタッチする場面があります。その昔,アメリカの大リーグでは,ホームランを打った選手を出迎えるときに握手をしていました。ところがその後,リーグに黒人選手が入ってきて活躍するようになりました。白人の選手は握手をしたくないと思い始めました。しかし,出迎えないわけにはいきません。そこで苦肉の策として手のひらでタッチするという形を編み出しました。それが続いているのです。
1863年にアメリカのゲチスバーグで南北戦争戦死者慰霊式が行われました。エドワード・べネットという政治家が1時間20分の感動的な演説を行い,その後にリンカーンがぼそぼそと低い声で3分間の演説を行いました。当時のマスコミである新聞はリンカーンの演説を無視しました。一紙のみが掲載しましたが,その後歴史に残ったのはこの報道でした。そこで語られていたのが「人民の人民による人民のための政治」という言葉でした。
1908年の第4回オリンピックのロンドン大会のときです。当時ヨーロッパ諸国の新興国アメリカへの反感は強いものがありました。開会式で星条旗が掲揚されないとか,正式種目であった綱引きでもアメリカ選手は運動靴なのに対戦したイギリス選手はスパイク履き,優勝者とエドワード国王が握手することになっていたのにアメリカ選手とはしませんでした。落ち込んだアメリカ選手がセントポール寺院に安らぎを求めにいきました。そのとき司祭が「オリンピックで重要なのは勝つことではなく参加することである」と語りました。後日クーベルタン男爵はその話を聞き感動し,各国代表を集めた晩餐会で引用したそうです。
私たちは歴史の流れの中から生み出されたしぐさや言葉をごく当たり前のように受けついでいます。それは当時のもつれた状況の中でもっとも相応しいものであったのでしょう。ですから,簡単でもいいからその背景を知っていないと,言葉の意味や使い方のみならず,言葉の重みを見誤ることになります。
言葉尻を捕まえるということがあります。状況を抜きにした言葉は生きた言葉ではありません。言葉だけを抜き出すと,どんな状況にでも結びつけて違った意味を持つように再生することができます。それが誤解や勘違いとなります。言葉を伝えても伝わるとは限らないことがあるようです。
人間関係を仲介するコミュニケーションの道具である言葉は,大づかみな情報として行き交う宿命を負っています。限られた言語と変幻自在な人的意図の間には1対1の対応は不可能です。結果としてコミュニケーションは近似でしかありません。言葉のニュアンスという範疇に誤差を織り込むのが通常です。そこで起こるすれ違いは電話のような機器を介した間接的な対話よりも,直接面談することによってかなりの程度回避することが出来ます。電話相談よりも面接相談の方が有効性が高いという直感を大事にしたいものです。
(2007年12月13日)
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