*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【思いを上塗り?】


 東京にお住まいのある主婦の方の体験が,パンフレットに載っていました。結婚間もない頃に,姑と出かけたときのことです。体が丈夫ではなく,その日も咳をしていました。すると姑が「あなたは体が弱いんだから,大事にしなくちゃ」と声を掛けてきました。体が弱いという一番のコンプレックスをつかれて,内心グサリと痛みを感じました。気にしていることを平気で口に出してくるなんて…と嫌な気持ちになったのです。
 数日後,実家へ帰ったときに,また咳き込みました。すると母が「もともと丈夫じゃないんだから,気をつけなさい」と言ってくれました。その一言にハッとしてしまいました。姑と母の言葉は全く同じなのに,どうして姑に対してはあんなに不愉快になったんでしょう。同じように気を遣ってくれていたのに,自分の狭い心が気持ちの壁をつくっていたんだと気がつきました。以来,姑の一言が胸にチクリとくると,母に言われたなら…と一呼吸おくようになったそうです。そうして分かったことは,姑の言葉はまったく悪意のないものだということでした。
 もちろん物事には逆の場合もあります。大事なことは,いずれにしても気持ちのよいつきあいは自分の側にあるということです。たとえ姑の言葉が正真正銘の嫌みであっても,明るく受け止めてしまえば,相手の気持ちを変える可能性が出てきます。逆に嫌みと受け止めていると,思いやりも嫌みも嫌みになってしまいます。どちらが得かは明らかです。人の関係を良くするのも悪くするのも,その決め手は自分の胸にあります。人のせいにする前に,自分の態勢をきちんとした方がいいでしょう。
 自分が人に嫌みを言う質だと人の言葉もそう聞こえるものです。姑とは嫌みを言う人という先入観を闇雲に信じてしまうことも邪魔をします。常に自他共に素直に受け取る努力をしていれば,良い方に動いていくものです。笑顔で受け止める人には嫌みを言おうとする方がたじろぎます。嫌みは長くは続きません。そうはいっても現実には,嫌みを言って懲りない人はいるものです。世間を狭くしていますから,やがて寂しさに襲われた挙げ句に悟ることでしょう。
 ありがとうございます。親切にされて「有り難い」と言うのですから,ひねて受け止めると皮肉に聞こえます。信じられな〜いという気持ちがベースにあります。親切の陰には何かあると勘ぐらなければなりません。相手の親切が善意か悪意かを見極める必要があるような世間は,うれしくありません。甘い声を掛けて籠絡する手練手管は,真意をカムフラージュしています。恋の駆け引きと似ていますね。恋という字は心の字が下にあり,下心ありというわけです。
 有り難いことをお互いに交わすことで,社会は成り立っています。その基本は善意を信じることです。世の中すべてが善意に満ちているという無邪気さはつけ込まれますが,だからといって有邪気というのも暗い人生です。少なくとも自分の回りでは信頼関係が成り立っていると思わなければ,明るく生きることはできません。そこで先ずは八分の善意を信じてみましょう。二分の警戒心を残しておけば大丈夫です。それは決して人を疑っているということではありません。砂糖に少量の塩を隠す方が甘みにコクが出てくるのと同じです。

(2008年06月18日)