*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【雑踏の中の傍若無人?】


 ねずみ算という計算があります。実際に確かめた人がいました。広い倉庫を理想的な環境にしてネズミのつがいを放しました。予想通りにどんどん増えましたが,ある数まで増えると急激に死ぬネズミが出てきて,最高時の3分に1になりました。そこからまた増え始めて減少するということを繰り返しました。多数でいることのストレスで,脾臓が腫れて副腎に異常が現れていました。
 アリゾナにあるケイハブ自然公園で,鹿を増やすために,狼,ピューマ,コヨーテといった肉食獣を殺しました。お陰で,鹿はどんどん増えていき数十万頭にまでなりました。ところが,鹿が一気に死に始めました。草木を根っこまで食べてしまうために食糧不足に陥ったと思われました。実は,食料があるときから鹿は死に始めていました。多くなりすぎてストレスで死んでいたということです。
 都市での暮らしは心理的なストレスを伴うと考えられています。ワースのアーバニズム理論では,アーバニズム(人口規模・密度・異質性の増大)が人びとの生活を概して悪い方向へ変化させると論じています。たとえば,家族,親戚,近隣,地域集団などの第一次接触の衰退と欠如を生みだし,その結果,集団の凝集性を弱め,個人に深刻な結果をもたらすと主張します。専門的には,この説には多くの疑問反論があるようですが,都市と田園という環境に対するストレスの違いを思い起こしてみると,密集によるストレスはやはり人間関係に影響していると考えたくなります。
 密集した暮らしから生じるストレスを回避するために,他者に対する無関心という自己防衛機能が過度に働いていると考えると,コミュニケーションの力が衰退していくことになります。コミュニケーションを通じて対等な関係意識が育まれると思われるので,他者にも人権があるという認識は薄まっていきます。凶行の被害者が誰でもよかったという発言は,無関心なその他大勢という他者意識の発露のように思われます。
 大勢の人の前で話すときのストレスを回避するために,目の前の人を木や石だと思えとか,手のひらに人の字を書いて飲み込めといったアドバイスがあります。人を人と思わないようにするということです。また,雑踏の中ですれ違う人すべてに気配りをすることは不可能なので,無意識のうちに人だと思わないようにしています。都会では,人通りの少ない道は危険だという意識が出てくるのも,出会う人を人と思わない習性から危険視してしまうからです。お互いに信頼できる関係を持つためには,それなりの人口規模があります。都市化とは,その限界を越えていくという副作用を内包しています。
 情報機器や交通手段の発達によって,暮らしは広域化しています。人間関係という尺度で見ると,関係のないその他大勢の中に埋もれていくことと同じになります。近くのスーパーの中でも,出会う人はほとんど見知らぬ人です。最低限の人間としての関係であるあいさつも交わすことはありません。このような暮らしの中で,お互いの人権を守るという気持ちは生まれようがありません。人権という理念にとって,都市化は強い逆風ではないかと危惧しています。

 [註]都市的社会関係と都市的パーソナリティ
 ワースWirth(1938)のアーバニズム論でもっとも注目されると同時に、もっとも疑問の多い部分
(1)規模は、匿名性を介して、第一次的関係の弱化と第二次的接触の優位を導く。さらに、無関心・慎み・飽き、世間づれ・合理性の態度を生み、一方で「自由と解放」を他方で「参加の感覚の喪失」を帰結する。
(2)密度は、競争・出世・利用の精神を生み、「無秩序」への傾向を帰結する。
(3)密度は、物理的近接から社会的接触の疎遠を生み、「愛着のない個人・孤独・フラストレーション」といった疎外されたパーソナリティを生み出す
(4)空間的凝離は、「多様なパーソナリティと生活様式の併置」を引き起こし、これが、「相対主義」「相違に対する寛容」「世間づれ・合理性」などの態度を生み、「自由と解放」「参加の感覚の喪失」に加えて「世俗化」を帰結する。
全体として、規模・密度・異質性は、都市的社会関係・都市的パーソナリティを介して、アノミーへと帰結する。


(2009年11月14日)