*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【言葉の意味の揺れ?】


 私利私欲が見え透いている姿は,さもしいと評されます。さもしいとは,沙門らしいという言葉が元になっています。出家して仏道を学ぶ修行をしている僧侶を沙門と呼びます。修行僧は托鉢してまわりますが,身なりも構わず粗食に甘んじていました。その姿を俗世の人々は貧乏の極みで見苦しく見てしまい,悪い意味が付随していったようです。人は自分の尺度で他者の心情を推し量りますが,自らのさもしさが口から発っせられる言葉に反映していることには気がつきません。
 室町時代から使われている気の薬という言葉があります。気の保養になるとか,面白いといった意味で使われており,精神衛生上の薬ということです。そこから逆に,自分の心を痛めることや困惑することを気の毒というようになり,恥ずかしいことやきまりが悪いことも表すようになりました。やがて,自分にとっての気の毒が,他人の苦痛も自分の気持ちを傷つけるということで,他人に対して同情する言葉に変化して,他人の気持ちを自分に反映する優しい言葉になりました。ところが今では,自分の気持ちを切り離して,他人の気の毒を言い表す使い方になっているようです。
 正月に飾るダイダイはその家の血統が代々続くという意味があります。また,数の子はニシンのアイヌ語カドに由来してカドの子の変化したものといわれています。語呂合わせで二親(ニシン)から多くの子どもが生まれるとの縁起を担いだもので,多産,子孫繁栄を意味しています。黒豆はまめに暮らすとの願いが込められています。命のつながりを願う風習が,一年に一度命の大切さを人の心に刻んできたのでしょうが,その意味を薄めてきた結果,命に対する尊厳も揺らいでいるようです。
 人権啓発の一環として,人権の花ひまわりの活動があります。ひまわりが人権の花とされている理由は,花言葉が献身であることと聞いています。数年前の総会で,この理由について,「ネットで検索したところ,ひまわりには献身という花言葉はなかった」という質問がありました。この質問がずっと気になっていました。
 感謝状贈呈式の折に,花言葉を説明している委員もおられることでしょう。そこで,「その話を聞いた子どもが図書館で花言葉を調べたら」ということを試してみました。町の図書館に出かけて,花言葉の本を10数冊開いてみましたが,ひまわりの花言葉は献身ではなく,「高慢,光輝,いつわりの富」などでした。子どもはどう思うだろうと考えてしまいます。
 「花言葉」だけでインターネット検索すると献身は出てきません。献身と結びつけて検索すると,人権の花ひまわりが献身とされているというものがいくつか出てきます。さらに,献身の花言葉を持つ花を逆検索すると,「赤ちゃんひまわり」,「ヘリオトロープ」,「マリーゴールド」,「スイカズラ」,「あせび」,「黄色のバラ」が該当していました。
 ひまわりの花言葉が献身であるということはそれほど一般的ではないのではという印象を受けます。何より,子どもたちの身近にあるであろう花言葉図鑑には現れてこないことが気がかりです。人権擁護委員のおじさんやおばさんが教えてくれたことを,子どもたちは簡単に確かめることができません。相手の立場になって考えようとしている人権擁護委員としては,啓発の対象である子どもたちの受け止め方に気配りする必要があるでしょう。ひまわりの啓発に当たり「献身」という花言葉を理由とする際には,この状況を知っておいていただければと思います。
(2009年12月14日)