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【進むために止まる?】
ブレーキは何のためにある? 本田宗一郎氏は,「ブレーキは車を速く走らせるためにある」と言ったそうです。スーパーマーケットのワゴンカーにはブレーキは付いていません。「この車は素晴らしいスピードがあり,乗り心地も快適です。ただし,ブレーキは付いていません。走らせてみませんか」といわれても,乗る人はいないでしょう。街中の走りを考えると,先を急ぐ中で,交通信号でブレーキを踏みます。皆が公平に急ぐ時間をシェアするルールになります。皆がルールを守らないと,皆が街中を走れなくなります。
豊かな暮らしをしたいとひた走るときに,ノーブレーキであることは怖いことです。かつて国連の試算では,OECD主要国並みの生活をするためには,地球人口は35億人を超えてはならないとされていました。既にそのリミットは過ぎています。制限を超えたらブレーキをかけなくてはなりません。先進諸国がエネルギーや資源の使用量を減らして,その分を途上国へ回すことしかありません。今まで通りの暮らしをしながら,資金だけを援助して,途上国の生活向上を計るのは,ブレーキのない暴走行為です。環境問題への対処は豊かさにブレーキをかけることです。
世間の物事は,あちら立てればこちら立たずです。地球のすべての人を立てれば,こちらの一人は立たないのです。あちらとこちらのどちらかが変わらなければならないとき,こちらが変わることを拒否します。表立って主張をしなくても,世間が変わるべきだと思っています。ブレーキをかけるのは自分ではないという理由を見つけようとしても失敗するので,せめて自分を後回しにしようとします。あちらが先にすれば,こちらもするということです。
自分に不都合なことは公平にしようという方法があります。30年ほど前,パリ市で親の収入によって子どもの給食費を違える制度が採用されました。高収入の親からは高い給食費を取ります。平等でよい制度だということですが,差別と考える受け止め方もあります。あなたの親は貧乏だから給食費を特別に安くしてあげるというのは,公平でしょうか,差別でしょうか。ハンディキャップという考え方は,日本では馴染みのあるものではありません。例えば,ボクシングは重量制ですが,相撲は巨漢も小兵も対等に戦います。ハンディキャップをいたわりと読み替えたとき,いたわられることが公平であるとは思われないことがあります。ハンディキャップはあくまで便法であるとすれば,公平の真の実現は別にあるという考えもできます。今までのやり方のまま進むのではなく,考え直すために立ち止まることも必要です。
(2010年07月11日)
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