*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【恩送り?】


 「恩送り」という言葉に新聞紙上で出会いました。人様から恩を受けた際に,「恩返し」をすることが人付き合いの倣いです。ところが,恩を返せない場合もあります。そのときは,受けた恩を,頂いた方ではない別の人に送ること,それが恩送りであり,江戸時代には使われていたようです。親に受けた恩を子どもに向けて送る,子育ても恩送りとなります。子育てが代々続いていくように,恩送りは人と人をつないでいきます。その連鎖を世間の前提として,「情けは人のためならず」という言葉が生きてきます。情けから生まれる恩という行為が,恩送りでバトンのように渡り巡って,いずれは恩返しとして戻ってくるという信じ合いです。
 英語圏では,「恩送り」に相当する概念が,Pay it forward(ペイ・イット・フォーワード)の表現で再認識されるようになったそうです。この"Pay it forward"をテーマに小説『ペイ・フォワード 可能の王国』が書かれ,ペイ・イット・フォーワード財団が設立されているということです。
 恩を巡る言葉はほかにもあります。「恩知らず」は受けた恩を忘れること,「恩着せがましい」は恩を押し付けることです。「恩を売る」という言葉もあり,見返りを期待して親切にすることです。高齢者に高額商品を売りつける手管として,使われています。
 劇作家の井上ひさし(1934−2010)は不遇な幼時期を過ごしました。幼い頃,父親と死別し,義父の虐待を受ける子どもでした。貧しさのため母に手を引かれて児童養護施設に預けられ,不良少年と付き合い,中学生になると店で物を盗んだりもしました。ある日,彼が岩手県一関市の本屋で国語辞典を盗み、本屋のおばあさんに捕まりました。おばあさんは「そういうことをすると,私たちは食べていけなくなるんですよ」と厳しくたしなめ,裏庭で薪割りを命じました。罰だと思って井上は薪割りをしました。
 そのおばあさんは薪をすべて切った井上の手に,国語辞典とともに,辞典代を差し引いた日当を握らせました。「こうして働けば本を買えるのよ」。後に作家になった井上は文集で「そのおばあさんが私に誠実な人生を悟らせてくれた。いくら返しても返し切れない大きな恩」と回想しました。彼は作家として有名になり,故郷の山形県川西村に自分の蔵書を寄贈して図書館をつくったほか、現地の農民を対象にした農業教室「生活者大学校」を設立しました。またその本屋があった岩手県一関市で生涯,同僚と一緒に無料文章講習を開きました。これを井上は「恩送り」といっています。「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(新潮文庫)
 「受け継ぐ」という言い方があります。恩を受けた,というのではなく,恩を受け継いだと表現すると,次へ継いでいくという意識が明らかになります。恩の中で最も重たいもの,それは命です。親から受け継いだ命という恩を,次世代につないでいくことが最重要な恩送りです。子どもが減るという事態は,命送りを滞らせていることになります。あらゆるものが恩送りで受け取ったものであるにもかかわらず,継ぐということを忘れ去ると,人の世は活力を萎ませていきます。受け継ぐという言葉を再確認すべきです。

(2012年02月03日)