*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【今ひとつ?】


 「うちのどら息子が・・・」と親が言いますが,使い方がずれていることもあります。時を知らせる鉦として,銅鑼という打楽器が使われていました。遊郭では,「カネを尽く」と「銅鑼を撞く」を掛けて,お客がお金を散在することを「銅鑼を打つ」と言っていました。そこから転じて金を使いまわる放蕩息子を指すようになりました。
 大切な娘を奪っていく若い男に向かって,父親が「どこの馬の骨が・・・」と憎らしげに言い放つ場面があります。中国で役に立たないものとされていたのが,鶏の肋骨と馬の骨でした。馬の骨は大きいだけに余計に邪魔で,傍迷惑なものの代名詞になりました。それがやがて,素性の分からない者を指す言葉になってきたのです。
 若者が先の見通しもなく突っ走っていると,年配者から「このたわけ者が・・・」と怒鳴られることがあります。農民が子どもたちに財産である田んぼを分け与えます。すると,一人当たりの田んぼの広さは狭くなります。子だくさんであると,食うに困るほどに狭小になります。そこから,田分けは愚か者の代名詞に使われるようになったということです。因みに,「戯ける」が元になったという説もあり,そちらが有力だそうです。
 母親の優しい声で諭しても効き目のない子どもには,父親のドスの利いた声で叱ることになるでしょう。人を脅すときには,ドスの利いた声を使いますが,ドスは脅すを略したものです。なお,今の世の中ではあってはならないことですが,短刀をドスという呼ぶのも,同じ理由であり,脅すのに短刀を使っていたからです。
 よそ様のことに関わらないことが行き過ぎて,孤独死が時折報道されています。「孤独死」は、誰にもみとられることなく死亡することを言います。「孤独死」と同義語に「孤立死」があります。家族で暮らし、病気などで相次ぎ死亡したにもかかわらず、社会的孤立で発見が遅れたときなどに使われています。ただし、「孤独死」「孤立死」とも明確な区別はなく、統計的には「変死」に分類されています。このような世情を憂えて周りの人が少しのお節介をするようにという声もあがっています。すり鉢の内側にくっついたものを掻き出す切匙(せっかい)という道具があります。その道具を使うしぐさが,他人の生活に干渉する様子に似ていることから,余計なお世話をおせっかいというようになり,字は節操を守るという意味の漢語である節介が当てられました。
 言葉を知って使ってはいても,今ひとつ上滑りしているという感じを持つことがあります。その由来を知ると,納得という落ち着きがあります。人権という言葉も,皆さんに今ひとつ腑に落ちていただけるように説明をしたいものです。「そういうことなんだ!」と。
(2013年10月06日)