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【受け手次第?】
年末は飲食店を訪れる機会も増えることでしょう。帰りには「おあいそ」と言ってお勘定をしてもらいます。お金を払うから愛想笑いをしてとでもいうことなのでしょうか。昔は,常連になると飲み代は全額を払わず1割ほどをツケとして残しておくのが通とされました。ツケを無くすように払いきることはお店との縁を切ることを意味していたのです。おあいそには,愛想が尽きたので勘定を払い終えて,もう二度と来店しないという意味が含まれていました。この本来の意味からいえば,お客が飲み食いに満足して,「ごちそうさま,おあいそして」と笑顔でいうのは間違っています。いつからか,おあいその勘定を払うという意味だけが残って使われるようになっています。
中年の女性に向かって「うば桜」と口を滑らすと,恐ろしいことになるのは想定内のことでしょう。でも,うば桜は褒め言葉なのです。中年になってもなお若々しく,色気のある女性がうば桜であり,単に年甲斐もない化粧の濃い女性という意味ではありません。どうして中年の女性が怒るのかというと,「うば」=「姥」という文字を思い浮かべるからでしょう。姥は姥捨て山の言葉にも含まれているように,年老いたおばあさんというイメージが強くあるからです。本来の姥桜にはそのようなイメージは全くありません。姥桜は正式にはヒガンザクラという美しい桜の一種です。それではどうして姥桜という名で呼ばれているのでしょう。この桜は花が散るまで葉が出ません。すなわち,葉がない=歯がない=老女という言葉のあや,ダジャレがあったのです。
おあいそは,本来の否定的な意味がなくなっている言葉であり,他方,姥桜は,本来の肯定的な意味が逆転してしまった言葉です。本来はという転換が起こっている言葉は,それを知る人と知らない人がいると混乱が起こります。そんなつもりで言ったのではないという勘違いがトラブルにつながります。中学生がもしかして自分は「いじめ」られているのかなと感じたとき,友人がそれはただの「いじり」だといいます。いじめかいじりか,それは受け手が決めることであるというスタンスが人権擁護の取るべき立ち位置です。ということは,たとえ姥桜を本来の褒め言葉として使っても,受け手が侮辱と聞き取れば,それが認められるべきであるということになるのでしょうか?
(2013年12月02日)
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