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【それが?!】
水戸黄門こと徳川光圀は,諸国を漫遊しなかったそうですが,領内の名僧知識を招いて食事をしながら,時事放談をする楽しみがありました。ある日,昼食会に8人の僧が招かれていました。「ちょうどよい機会だ。御僧たちに面白いものをお見せしよう」と言うと,光圀は障子をするすると開け放ちました。庭の大松の根に囚衣を着た男がくくりつけられていました。「あの男は先ごろ,殺生禁止の場所で鶴を撃った者です。よってこれから,私が成敗する。あなた方は人殺しの現場を見たことがなかろう」。光圀は控えの者から刀を受け取り,庭へ降りていきました。
「あれなる8人は名高き名僧知識。お前のためにそろって引導を渡してくれるそうだ。果報者,観念せい」と言うと,刀を振りかぶり「成仏せよ」と重ねて言いました。しかし,呼吸が乱れるのか,ふと思いとどまり,また振りかぶる。しばらくして「この罪人の縄を解いてやれ」と言いました。
そして,8人の僧をにらみつけると,「僧籍にある者にとって大切なのは,殺生戒ではないか。ものの命を絶つことを禁じ,我が一命に替えても他の命を救うてこそ名僧。ところが誰も男のために命乞いする者はなかった。破戒僧というものだ。よって,8人は追放だ」。おなじみのご老公のお裁きです。
ところで,19世紀の刑法学者が,「法律がなければ犯罪はない」というスローガンを用いていたそうです。この命題は,「あらかじめ成文法規によって犯罪が規定されていない限りは,どのような行為であっても犯罪とされて刑事的な追求をうけることはない」ことを意味しています。ということは,少し意地悪な解釈をすると,どれほど不都合・不道徳なことをやらかしても,それが刑罰法規に明記されていない行為に属する限りは,何ら咎められることはないということになります。もっとも,民事事件として法廷にことが持ち込まれると,それなりのお仕置きがなされることもあるようです。法治国家のお裁きです。
人権に関する法規がいじめ防止や虐待防止などの形で定められていますが,ヘイトスピーチなどの新しい人権問題に対しては,未だ法的な定義がないために,侵犯性を判断する根拠がありません。啓発や救済にどのように取り組めばいいのか,成文法規の限界を踏まえた活動の整理が急務です。
(2015年10月12日)
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