*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【気替え?】


 夏目漱石夫人・鏡子は低血圧だったらしく,朝早く起きると頭が痛くて一日中ぼーっとしてしまうたちでした。そのため朝寝坊の癖がついてしまいました。漱石はその癖を直してやろうとたびたび小言を言いましたが,その小言というのが漱石らしいものでした。
 「お前の朝寝坊で,おれはどれだけ時間の不経済をしているか分からない」と,漱石は言います。なぜかといえば,「おれは一時間も前から目を覚ましているんだが,細君よりも先に床を離れるのは不見識だから,お前が起きるまで床を離れない。これを長い間に見積もると大変な損害だ」というわけです。
 別に細君より先に起きたって構わないわけですが,江戸っ子気質の漱石にとって,女房より先に起きるなんて亭主の沽券にかかわるのでしょう。
 沽券という言葉を久しぶりに使いました。元は土地などの売買証券の意でしたが,人前で保ちたい品位や体面を表します。今どき沽券を持ち出しても通じないでしょうが,旧い男衆にはその気分が染みついているので,不意に表立ってくることがあります。困りごとの相手になりやすい方の中には,亭主の沽券にかかわる,男の沽券にかかわる,偉い立場の沽券にかかわる,先輩の沽券にかかわる,などの背景が絡んでいることがあります。沽券という裃を脱げそうもないならば,人権を人の沽券と言い換えて気持ちを替えるように仕向ければ,こじれた困りごとは案外に解きほぐされるかもしれません。沽券が拙いのではなく,その中身が変わればいいのです。

(2016年10月09日)