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【伝わる?】
イギリスの文豪,サマーセット・モームの75回目の誕生パーティの折,友人の一人が「君が今までで一番うれしかったことは何か,聞かせてくれたまえ」と言いました。モームはにこやかに答えました。「太平洋作戦に従軍中のGIから手紙をもらったことだ。その手紙には『あなたの作品を通読したが,一度も辞書の世話にならずにすみました。ありがとう』と書いてあったのだよ。ぼくはそのとき,文学者としてこれ以上の喜びはないと思ったものだ」。
おもしろく,分かりやすい文学を心掛けた結果,多くの読者の支持を得たモームにとって,確かにその手紙は,無名のGIから贈られたうれしい「勲章」であったに違いありません。
伝えたつもりでも,丸ごと伝わるとはかぎりません。話し手の選んだ言葉が,聞き手の言葉を引き出すときに,意味のずれが伴います。例えばコーヒーを飲むという文章で,話し手と聞き手がそれぞれにイメージしているコーヒーは違いますし,カップなども違っているはずです。伝えても伝わっていない部分が出てきます。また,聞き手が知らないモノや体験などを表す言葉も,意味不明となって,全く伝わりません。
普段の会話の中で出てくることがない言葉があります。いわゆる専門語は限られた世界で使われています。専門書を門外漢が開いても,全く理解できません。専門家が一般の人に説明をする場合,言葉がすれ違っているようで,どちらもかなり苦労をします。人それぞれに違った人生を歩んできているので,経験につながっている言語の蓄えは千差万別です。したがって,人が持ち合わせている言葉の記憶は,それぞれに量も質も違います。
それでもなんとか分かり合えるのは,聞き手が知らない言葉を話し手が辞書風に説明しているからです。例えば,「人権」という言葉は何となく聞いたことがあるようですが,あらためて考えようとすると,よく分かりません。中学生が書いてくれる人権作文では,人権を辞書で引くとこう書いてあるという冒頭の文書がかなりあります。人権について伝えようとするなら,人権という言葉をそのまま伝えるのではなく,聞き手に合わせて言い換えでくるんで伝えるようにします。幸せになりたいと願ってもいいという人権があなたにはある,と表せば,誰にでも伝わっていきます。
分かりやすい文章や話は,平易な言葉だけを使うというのではなく,丁寧な説明をちりばめて難解な言葉に導いていく気遣いによって可能になります。聞き手や読み手がそれと気付かないまま教わっているということもあります。委員に求められる啓発のスキル,それは言葉に対する誠実な理解と丁寧な表現により実現することができます。
(2019年03月26日)
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