*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【伝心?】


 北原白秋(本名:隆吉)は,小学5年生の夏休みに,おじいさんの家で島崎藤村の「若菜集」を読んだとき,詩人になる夢が胸に憧れとして宿りました。造り酒屋の父は,跡取りはそろばんができたらいいと,息子が詩に読みふけることに反対していました。母だけは味方で,東京から送られてくる「文庫」や「明星」を,家の外で郵便屋を待って受け取り,隆吉の机の上に置くようにしてくれました。
 隆吉が16歳の春,家が火事になったとき,本や詩集を出そうと家の中に飛び込もうとして止められました。翌朝,焼け跡には運び出されている道具類が乱雑に積み上げられていました。痛々しい思いで眺めていた隆吉は「あった」と叫び声をあげました。酒や水でびしょ濡れになった地面に泥まみれの若菜集が放り出されていました。走り寄って拾い上げた隆吉は溢れる涙に「きっと詩人になる。東京へ出るぞ。この若菜集が励ましてくれているのだ」と思いました。
 中学を卒業するまで待ちきれずに東京に旅立つ隆吉を,反対していた父も母とともに,人目を避けるように遠くから見守ってくれました。
 藤村は自分の若菜集が九州の片田舎にある造り酒屋から跡取りを奪うとは思っていなかったでしょう。それでも,誰かが思いを込めて選び抜いた言葉は,誰かに届いていきます。その思いの伝わりに感動したとき,言葉が人を人に結びつける力を持つことに感激します。だからこそ,隆吉は伝わる言葉を生み出す詩人に憧れたのです。
 人権の啓発は,言葉を届ける活動です。「人権とは,全ての人々が生命と自由を確保し,それぞれの幸福を追求する権利」。この言葉は,どれほど広く深くきちんと伝わるでしょうか? 言葉の職人ではないので誰にでも伝わるという言い方はすることは無理ですから,せめて目の前の人には伝わるように言葉を選ぶ努力はしたいものです。今そこにいるのは誰?
(2021年07月03日)