*****《ある町の退任人権擁護委員のメモ》*****

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【私の幸せ権利とは(前編)?】


【豊かさの実感】
 好きなものが選べて手に入っているのに,なぜか豊かさを感じられない?
 ありがとうと受け取る豊かさには際限がないので,「もっと」と欲の暴走にはまっていきます。川柳に「使わない 便利もので 狭い家」とありますが,安いといって戸棚の奥のゴミになっている経験は誰もがしていることでしょう。
 逆の観点を持たねば,抜けられません。ドウゾと「与える豊かさ」への転換です。かつては,貧しくても分け合っていました。与えようと心遣いしていると,取り分にブレーキを掛けるようになって,結果として自分はこれだけでよいと欲が止まります。これが豊かさの適正化です。つまり,人に与えることができたら十分に豊かなのです。豊かさの逆の貧しさを感じるのは,分けてあげられないときなのです。アリガトウとひたすら受け取っているときには,分けてあげていないために,心の隅で貧しさを感じてしまい豊かさに浸れないのです。ありがとうの豊かさは逆順なのです。
 竜安寺の蹲いに「吾唯知足」と刻まれています。釈迦の教えを伝える遺教経の言葉で「足ることを知る人は貧しくても豊かである」に由来する言葉です。ここから,「知足」で清貧に暮らすことが勧められます。しかし,そこには具体的な行動が伴っていません。知足だからどうなのということです。足るを知ったら,余ってしまうものを分け与えることができます。知足と分与は意識と行動の表裏一体なのです。清貧であることの価値は,ドウゾという豊かさにつながっていることです。分け与える相手は周りにいる人たちであり,社会的な人の関わりが温もり(社会の体温)となっていきます。
 人が豊かさを求める心情は,人が生きている社会に温もりが生まれるという期待なのです。人間らしい幸せへの期待と考えたくなります。そこで,人が幸せを感じるのはどういう状況であるのか,以下に考えておきます。
  物事の整理をする際の基本軸である,誰が,どこで,いつ,何を,なぜ,どのようにという《6W1H》の視点から,しあわせの説明としての人権を考えていきます。

【幸せの第一権利〜幸せになるのはWHO?〜】
 ワタシが幸せに生きていく第一の権利は,「ワタシのことはワタシが決める」ということです。その「ワタシの決定権」を保障する形として「自由」が想定されています。個人の決定が具体的に実現されるかどうかは置いておくとして,先ずは決めることが尊重されていなければなりません。
 今日のおかずはと,自分で決めます。朝起きなくてはと,自分で決めています。障がい者権利条約の審議のプロセスで「我々のことを我々抜きに決めるな」と,当事者から提起されたということです。
 決定を支えているのは「自尊感情」です。自尊感情が低いと,人に決めてもらうことになったり,他者を誹謗したりするようになります。

 「いじめ防止対策推進法」という法律において,「いじめ」とは,児童等に対して,当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理又は物理的な影響を与える行為であって,当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいうこととされています。
 つまり,いじめとは,いじめる者が「いじり」であると言ったり,まわりの者が「ふざけ」であると言ったりしても,対象児童本人が「心身の苦痛を感じているもの」と決めていくものなのです。本人の決定する権利が擁護されるべきなのです。

 西洋料理は調理人が皿に盛りつけたときに味が決まっていますし,食卓に届けられる順番があることから,味の順序も決まっています。一方で,和食は,味の薄いものからといった作法もありますが,全部の皿が出ていますので,どの順番で食べるかは食べる方の自由です。さらに,ご飯と煮物を口に入れたり,ご飯とお椀を口に入れたり,その量を加減したりと,口の中でいろんな味を調合することができます。
 和食ではテーブルに調味料も並んでいるので,味の調合も食べる人に任されています。手塩という食膳に添えられた少量の塩は,食べる人が味加減を整えるために使われています。このように自分の気に入った味付けにすることができる食べ方は,味を決めているのは自分であると思うことを可能にします。
 料理をする人に信頼を置けば,ドウゾと勧められる食べ方をアリガトウと受け入れることができます。そうであっても,自分流の食べ方まで指示されると気分を害することもあるでしょう。言われたくないということです。

 自分のことは自分が決める,それは人権の重要な要素です。指図されると従属関係になります。対等とは自由であることであり,具体的には自己決定権を行使できるということです。

○大阪市立小学5年女子児童が2019年9月,いじめを示唆するメモを残して自宅マンションから飛び降り自殺をしました。

小5女子がいじめ自殺

 メモ:「夢は役者になりたかった。学校のやつらおそうしきこなくていい つらい,せいかつ学校が。たぶんみんなひていする もうつかれた 本当に本当にごめんなさい。さようなら
 死ねってゆわれたんだし 自分死んだってだいじょうぶでしょ 誰も悲しまないと思。気づいてほしかった。本当にありがとうございました。」
■Date:2020.3.12:毎日新聞
 自殺とは,自分が自分を殺すと決めてしまうことです。このような悲しい決定をさせないことが人権擁護のはずです。悲惨な自己決定に追い詰めることは卑怯な侵害です。

【幸せの第二権利〜幸せがあるのはWHERE?〜】
 ワタシが幸せに生きていく第二の権利は,安心の確認としての人とのつながりです。独りぼっちである,孤独であると,生きることが辛くなります。さらに,誰からも必要とされていない,邪魔にされていると思ってしまうと絶望するはずです。
 人とのつながりが,自分の存在を確認できる居場所になります。人間は人の間と書きますが,文字通り人と人の間が安心して生きていく居場所であることが求められ,安心する権利が生まれます。
 人には,自分の不安を他者に転嫁したり,他者の傷みを見ない振りをしたりといった弱さがあり,お互いの安心の場にひびを生じさせてしまうこともあります。その場合でも,痛みを共感することによって,他者を安心させるような配慮があれば,人権が尊重されることになります。
 ただ,さまざまな形の人とのつながりを一方的に破壊する理不尽な強制などは,安心する権利の侵害と見做されることになります。

 普段の生活の中では,お互いが同じ者同士であるという暗黙の了解の下で行動したり,考えたりする傾向があります。社会は自分と同質の者ばかりで構成されているわけではありません。様々な違いを認め合い,その違いをお互いに尊重し協働できていると自覚しあえることが人権尊重の社会をもたらしてくれるのです。

 聖徳太子が律令制度を始めようとした当時の日本のあらゆる文化の担い手が,中国からのあるいは朝鮮半島から来た渡来人でした。こうした渡来人たちといっしょにうまくやっていかなければ日本は成り立たない,という難問に最良の指針が「和」であったのです。「和をもって貴しとなす」の「和」とは、仲良くいっしょにやっていこうという単純なものではなく,全く違っている人間が集まり,違ったまま渾然一体となって一つの響きを醸し出すといった壮大な哲学的目標でした。そこでは,当然のこととして,違っている人間がお互いの人権を尊重するという要件が満たされているはずです。

 算数で和とは足し算です。復習しておきましょう。男児3人と女児2人を足すと,5人です。では,柿3個とミカン2個を足すと,やはり5個になります。さらに,鉛筆3本と薔薇の花2本を足すと,5本ですか。違いますね。足せないのです。男児と女児を足した5人とは何者ですか? 男児でも女児でもありませんね。足し算,和とは,同じものだけが足せるのです。5人は子ども,5個は果物なのです。でも鉛筆と薔薇の花の5本は同じにならないので,和にはならないのです。
 和とは,同じであることを認めることが必要条件となります。男女も,健常者も障がい者も,同じ人間であると考えることが,平等のための和の基本なのです。

 かつて,漁師たちがとった魚を分けるとき,一人当たりの分け前を当たり前といっていました。この当たり前の分配が不公平になるともめることになります。皆が納得できる分け方がなされました。そのことから,ごく当然,ごく普通のことをさして当たり前というようになったそうです。当たり前とは平等であるということなのです。

 神戸市の男性が,近所の保育園の園庭で騒ぐ園児の声がうるさいと訴えましたが,敗訴しました。遊んでいる声は国の環境基準以上でしたが,昼間の平均は下回っており,耐えられる限度は超えていないと結論されたのです。園児の遊ぶ声は,不愉快と感じる人もいれば,微笑ましいと言う人もいます。反社会性も低いという判断になりました。
(Date:2018.1.28:朝日新聞)
 社会生活上,子どもが安心して暮らしていくために,大人は少しは我慢をしようということです。どうぞと言いませんかという勧奨です。

 東日本大震災の折りに,絶望しかけた住民が中学校の教師にしみじみと言ったそうです。「先生,俺,分かったよ。学校から子どもたちの声が聞こえてくる。これが俺たち大人の生きる源なんだよね」。

【幸せの第三権利〜幸せを感じるのはWHEN?〜】
 ワタシが幸せに生きていく第三の権利は,人と分かり合えるための表現が確保されているということです。話せば分かるという表現世界が閉ざされるときに,諍い,戦争という人権侵害の極みである悲劇が忍び寄ってきます。
 人との結びつきは言葉も含めた多様な表現によるものが基本であり,お互いの表現を先ずは承認することで相互の理解が生まれます。もし違いがあったとしても,その先に同意に向けた必要な対応を進める節度が発揮されます。そのようなゆとりのある言葉遣いが人となりの品格を表します。

 日常生活の中で,意図的であるか否かを含めて誰かの表現の権利を侵害してしまっていることがあります。また,勝手に自分のことを他者に表現されない権利,表現しない権利があるという気づきが,情報社会においては大事になっています。
 ネット空間の特徴である匿名という立場に逃げて,人をおとしめる虚偽の表現を流布したり,気に入らない表現に暴言を浴びせたり,相手に深刻な侵害となる配慮に欠ける発言が蔓延しています。
 自分のことを勝手に語ることはいいのですが,他人のことを本人でない者があれこれ表現すると侵害に及ぶことがあります。表現が一方的で交流しない状況,あるいは分かってくれないという状況は,幸せの要件が満たされないので,不幸になります。

 「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉があります。社会では雄弁という銀の方が実用的ですが,なぜ沈黙が金なのでしょうか? 確かに他愛のないおしゃべりをしないといった慎ましさもあるでしょう。しかし,実のところ沈黙は聞き役に回るためです。話を聞いてあげることが相手にはうれしいことであり,金の価値があるのです。
 表現の活発さは有用なのですが,情報社会であっても,人間社会では「沈黙は金なり」であり,自分が沈黙することによって,相手にドウゾと表現の機会をギブしているのです。聞くことによって,分かり合いが始まるのです。話し合いだからと,双方が話しては理解し合うことはできません。聞くために,口は沈黙すべきなのです。

 日本語における,おとこ,おんな,男,女,それぞれ別々の言葉です。ところが,英語で女性のことをWomanといいます。この語源は,Woe man です。woeとは災い,苦難,深い悲しみといった意味で,男性を苦しませるものということになります。Manは男性でもあるし人間の意味もあります。MaleとFemaleも,女性は変形という形になっています。イブがアダムの肋骨から作られたという考え方と関係があるのでしょう。
 アダムとイブにへそがありやなしや。これが大問題として真面目に論争されたことがあります。五百年前頃から十九世紀に及びました。おかげで当時の画家たちは大変困りました。イブは長い髪で隠してごまかせますが,アダムはそうはいきません。画家たちはへそをつけたり,つけなかったりしていました。システィナ礼拝堂の天井画を描いたミケランジェロは,断固としてへそをつけています。これについて十七世紀の学者トマス・ブラウンは,へそと呼ばれる曲がりくねったこぶ状のものをつけるのはおそるべき誤り,なぜなら「創造主が余計なものを好み,なんら用途,効用のない部分を与えた」ことになるから,とミケランジェロを批判しています。
 このような言葉における地域差や時代差があることを弁えた上で,表現世界に取り組むことが大事になります。

 おまわりさんの敬礼の形はどういう意味があるのでしょうか? 中世の騎士は顔まで覆ってしまう覆面付きの鎧を着けていました。すれ違うときに互いに悪意のないことを示すために覆面を挙げて顔を見せ合っていました。覆面を挙げるためには手を顔の前に持っていかなければなりません。この騎士の作法が敬礼となって受け継がれているということです。敬礼という表現によって,相手に安心してというメッセージを出しているのです。

(2024年02月11日)