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【私の幸せ権利とは(後編)?】
【幸せの第四権利〜幸せが宿るのはWHAT?〜】
ワタシが幸せに生きていく第四の権利は,社会活動に参画することです。社会権,参政権といった権利などが想定されています。他者と協働することで,人は生きていく糧を得るだけではなく,自らの存在価値,平たくいえば,いなければならない人という自覚を得ることができます。
入院した仲間の見舞いで,「あなたのいないところは皆でカバーできているので,安心してゆっくり養生して」と言われると,「あなたがいなくても困ってはいない」と言われているようで淋しくなります。「あなたがいないと皆困っているので早く帰ってきて」と言ってほしいはずです。急かせることは治療には支障があるかもしれません。でも,大丈夫でしょう。幸せを与えられて早く直そうという前向きな気持ちになれるはずです。
社会活動において発生するさまざまな課題が,安易に巡り巡って社会的弱者や少数者の差別・排除に向かうことがあります。その理不尽さに気づいて,性差による参画の違いを解消しようとする活動も法的な支援を受けて進められています。また,障害者が「障害」を持っているのではなく,社会が「障壁」をもたらしていると考える社会モデルという考え方から,「合理的配慮」によって障害を無くす努力をすることによって,障がい者が社会に参画することの実現が促進されるはずです。平等である社会は個別の一人一人に配慮して公平な状況で参画できる社会を構成します。
障がい者の人権を護る活動として,合理的な配慮が進められています。そのイメージを確認することから啓発が始まっています。理念として確立しているのが,EQUALITY=平等です。ただ,上図に見るように,それでは観戦という結果の均等な実現ができません。そこで,実践としてのEQUITY=公平な対応が推奨されます。皆が観戦できるように,個別な支援をすることです。ただ配慮が行き過ぎて,EXCESSIVE=過度となるようなことは,勧められません。配慮は,決して優遇措置ではないのです。
行政の職員の方々には,しっかり相手の話に耳を傾け,前例がない,特別扱いできない,もし何かあったらなど,と言い訳をしないことが求められます。社会が障害者を受け入れることによる「漠然としたリスク」も不安視されがちですが,これも断る理由にはなりません。それは社会が障害を押しつけることになるからです。
障がいのある人が差別と感じる様々な事象に,決して白黒を付けるわけではなく,当事者間で「建設的な対話」をしながら,差別について共通認識を深め,社会に優しさを蓄積することが,豊かな社会を築くことになります。
実際の局面において,災害避難場所で,食品,物資を「一人1個」と平等に配布するとき,障害で並べない子どもの分を求める人へ「一人1個」と言い張りますか?
無人駅をなくす要望が鉄道会社に出されています。障がい者に対して,鉄道側は「前日までに予約を」の一点張りの返事です。「障がい者は予定通りに動けというのなら,それは差別だ」と利用者は静かに語られます。支援者からは,「周囲の手助けがあれば,要望などしなくて済むのに」という言葉も出ています。
当事者間で可能な対応を出し合っても解決ができない場合は,第三者ができることを持ち出すことで道が開けることがあります。三人という形が社会の基本単位なのです。合理的配慮という掛け声によって引き出したい社会力とは,三者それぞれの参画権によるドウゾという互恵の発揮です。
子どもが被害者となる虐待は,子どもの安心権に対する侵害であることは明らかです。一方,加害者である親や大人は自らの幸せの参画権を侵害をしていることを自覚しなければなりません。
人は社会に参画することで幸せになることができますが,そこでは人間としての責任と義務を引き受ける実践が必須なのです。社会的な関わりはドウゾという実践から生まれるからです。親は子どもに対して,同じ人間として接し,ドウゾの姿勢で養育という幸せを得ることができるはずです。
ところが,子どもからの具体的な見返りという互恵関係は成立しないために,親は参画する権利を意識しにくくなって,子どもを同じ人であると見る和の視線が曇ってしまいます。しつけのためには自分の思い通りにしていいはずと見下した振る舞いに及びます。時には,自らの幸せに水を差す存在と勘違いして,感情的に排除するような所業に及んでしまって,暴行・虐待という結果に至ります。親には,子どもとのつながりに参画する権利から幸せを呼び寄せてほしいものです。
パワハラは,いずれの場合でも,心身に対する攻撃により相手の参画する権利を封じたり放棄させたりして排除しようとする理不尽な働き掛けです。職場では,組織活動の利便性のために役職・立場が設定されます。それでも当然のこととして,立場は違っても同じ職場の仲間です。そう思うから「お互い」の間が人間の間になり互恵行動が成立します。それをパワーで支配しよう,従わせようという個人的な意識があるからハラスメントに及んでしまいます。人としてお互いに参画しているという認識が幸せ意識です。
【幸せの第五権利〜幸せがあるのはWHY?〜】
ワタシが幸せに生きていく第五の権利は,ままならない憂き世の中で,希望を持つことです。絶望とはこの先生きていてもいいことがないという思い込みです。どうせなら,希望が適うはずという思い込みの方が幸せになれるはずです。
あなたは幸せですか? あらためて考えたことがないかもしれません。簡単なチェック法がありますので,自問してみてください。「夜寝るときに,明日の朝起きるのが楽しみですか?」。返事が楽しみである,ならば幸せです。まさか,寝るだけが楽しみではないでしょうね。
希望が奪われて絶望に向かってしまう言動や行動の背景には,偏見や誤った知識,迷信,根拠のない因習などに基づくものが多く見受けられます。私たちの心の中にひそむ偏見や誤った考え方,根拠のない因習を取り除くことが,人権侵害から救われる方策です。
数々の昔話では,いろいろな紆余曲折がありますが,最後の言葉は「めでたし,めでたし」です。好事魔多しという一方で,万事塞翁が馬とも言います。可能性を信じて,発展や進化を目指すという目標を設定できることが仕合わせなのです。
小学4年生の女子(10歳)の栗原心愛さんが亡くなる3か月前に,自分に宛てた手紙で「未来のあなたをみたいです。あきらめないでください」と書いていました。絶望的な父親からの虐待を耐えるのに,希望にすがっていたことが(生きようとしていたのに)伝わってきます。希望という生きようとする願いを頼りに耐えていましたが,強大な虐待によって,命が虚しく打ち砕かれてしまいました。
人様から恩を受けた際に,「恩返し」をすることが人付き合いの倣いですが,恩を返せない場合もあります。そのときは,受けた恩を頂いた方ではない別の人に送っていくこと,それが恩送りであり,江戸時代には意識され行われていたようです。
親に受けた恩を子どもに向けて送る,子育ても恩送りとなります。子育てが代々続いていくように,恩送りは人と人をつないでいきます。その連鎖を世間の前提として「情けは人のためならず」という言葉が生きてきます。情けから生まれる恩という行為が,恩送りでバトンのように渡り巡って,いずれは恩返しとして戻ってくるという信じ合いです。
「ドウゾ」の言葉を明日に向けてお互いに託していくことが社会の温もりとなり,助け合いという社会の温もりへの希望を実現させていきます。
【幸せの第六権利〜幸せを招くのはHOW?〜】
ワタシが幸せに生きていく第六の権利は,先人から膨大な知恵を受け継ぎ共有することを目標に学習することです。学習のない権利の行使は権利侵害を招きやすいという過去の反省が生かされなければなりません。
学習する権利とは,人として成長する権利,人として豊かになる権利であり,幸せになっていく権利です。過去の様々な理不尽な振る舞いの反省から人権は生まれてきました。この社会の学習機能が豊かな社会を創り出す有効な活動と考えることができます。
人は,社会の中でお互いに支え合って生きています。自分の人権が守られているのは,自分以外の人の英知と努力によるということを忘れがちです。人権について考えるとき,お互いの人権がどのように相互に連携して機能しているものであるかを学習することが,人権尊重の実現を可能にします。
盗みや傷害行為では罪の一線が明確ですが,パワハラやセクハラは本人が不快に感じればハラスメントというのが普通です。したがって,仕分けが曖昧であるために,萎縮したり,反発したりする人もいます。
ハラスメントは,罰が発生する「赤信号」ではありません。黄色信号と考えるべきです。減速し,状況を観測し,必要な停止をすることです。間柄の気まずさに気づいて,予防すべき行動なのです。
罰があるから止めるという他罰ではなく,自ら学び気づいて止める自己管理をするものです。停止は二段階でこそ有効に機能するという自明な知恵を学んでほしいものです。
ベランダでの喫煙に規制が必要になるかもしれない状況があります。家族との間を配慮してホタル族がベランダで喫煙をしますが,お隣の間には無頓着になります。間が悪いことです。自分の行動の影響で,迷惑する人がいるかもしれないと,他者との間柄に目を向けて考え気づいていくという学びによって,自己抑制をするという成長が期待されます。それができなければ,建物の管理をする上での明文化などを,とりあえず進めることです。
障がいに対する社会モデルの普及が課題ですが,そのためには「障害を持つと障害がある」という言葉遣いの修正が必至です。理念を理解していても,発する言葉にきちんと反映されていないと意味がありません。それぞれの表現の背景にある理解の違いに気づく機会を身近な暮らしの場で提供し合う,それが人間らしさの学びの瞬間を提供します。言葉遣いが人間らしさを表現します。その言葉の品質を学習によって洗練することが人との間柄の質を決めます。
ある医院で夜中に看護婦から,患者さんの容態が変だという緊急電話が入りました。医者が急いで病室に入ると,心配をよそに患者さんはケロッとしていました。若い看護婦は医者に無駄足を踏ませたことに身を縮めて目で謝っています。しかし,先生は決して叱ることはしませんでした。かえって,「ヨカッタ、ヨカッタ」とニコニコしていました。
患者さんの容態をよく見て,いよいよというときに呼びなさいと叱ってしまうと,この次に同じようなことがある場合に,その遅れが間に合わなくなることがあり,患者さんの不幸につながりかねません。
医者は看護婦の早い対応が無駄足を招いたと責めることはしないで,いつでも,無駄になっても,すぐに呼んでいいと示しているのです。先生に気を遣うのではなく,患者さんのために気遣いをすることが一番,それを経験として,学ばせていたのです。
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ワタシの幸せ人権について,一応の説明を終えます。
人と人との間で擁護し合う人権によって,ワタシの幸せ人権がもたらされていきます。この構造を弁えていれば,人間という存在が少しは見やすくなるはずです。
今後も,各論として,人権羅針盤を使った考察の旅を続けていくことにします。
(2024年02月18日)
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