【共生社会と人権:その5】
令和6年10月,ある団体から講演の依頼を受けました。先日そのお役目を終えました。その時の話を採録しておこうと思い立って,数回に分けてお届けいたします。聞きたいという方を前に語ったことが,どのように伝わったのか分かりませんが,一つでもそうなのかと思って頂けたら幸いです。よろしかったら,お付き合いください。
講演で依頼されたテーマは「共生社会と人権」でした。依頼された団体は障害のある方と民生児童委員,人権擁護委員の方々です。この前提で話を組み立てています。講演録の第5回分です。
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【4】人権羅針盤の構築について
第4回の話の中で,各種の人権宣言や条約などを「幸福を追求する権利」及び「人間らしく生きる権利」という二つの主題に添うようにまとめてみようと試みています。その続きです。お急ぎの方はスキップして後の号での結論にお立ち寄りください。
この表を横向きに切り取る形でまとめていきますが,その共通項として選出する意味を,2つの流れに添うものと意識しておきます。一つは「私が幸せであること」,もう一つは「人間としてあるべきこと」です。
(3)権利分割第3項:WHEN
権利一覧表の第3行目を抜き出してみると,次のようなものになりました。
人権宣言のキーワードは「・・・」と何もありません。世界人権宣言では「理性と良心を授けられており」とあります。この授けられた理性と良心を言葉で意識化したことが人間らしい生き方をもたらしてくれました。まさにはじめに言葉ありきです。子どもについては「意見を表す」という表現が尊重されます。高齢者では「若年世代と経験と知識を分かち合う」ためには言葉による表現が必要です。障害者では「差違や多様性の受入」が言葉による表現の目的となっています。そこで私個人の幸せの権利として「表現権」を,人間としての権利は互いに「真正」であること,そのために人の間では,それぞれ自他を理解し合い,お互いを否認しないように心掛ける関係が望ましいとまとめることができるでしょう。
【私は,自分の意見を表明し,共感する】,そして,【私たちは,互いの意思を表明し承認し合う】
「真正な表現の人権」があるから,自分のことをよく考えて「表現する権利」がある!
○ワタシが幸せに生きていく第3の権利は,人と分かり合えるための表現が確保されているということです。言葉遣いが「人となり」「品格」を表します。話せば分かるという表現世界が閉ざされるときに,諍い,戦争という悲劇が忍び寄ってきます。日常生活の中で,意図的であるか否かを含めて誰かの表現の権利を侵害してしまっていることがあります。
また,表現しない権利,勝手に自分のことを表現されない権利があるという気づきが,情報社会においては大事になっています。一方で表現の自由を不正適用して,匿名という立場に隠れて人をおとしめる虚偽の表現を流布したり,気に入らない表現に暴言を浴びせたりして,相手に深刻な侵害を与える配慮に欠ける行為は,真正な情報という条件を逸脱しています。表現が交流しないものに変質し,分かってくれないという不幸を招くことになります。
※おまわりさんの敬礼の形はどういう意味が有るのか,考えたことがありますか? 中世の騎士は顔まで覆ってしまう覆面付きの鎧を身に着けていました。そのため,普段人とすれ違うときには互いに悪意のないことを示すために覆面を挙げて顔を見せ合っていました。覆面を挙げるためには手を顔の前に持っていかなければなりません。この騎士の作法が敬礼となって受け継がれているということです。顔という多様で個性のある表現を理解し合うために敬礼をしているのです。
※沈黙は金,雄弁は銀という言葉があります。銀の食器があるように,銀の方が実用的なので,雄弁は普段の暮らしでは実用的であるという経験があります。では,なぜ沈黙が金なのでしょうか? 余計なことを言って相手を傷つけないためでしょうか? そのような守りの教えではありません。金であることは大事であるということであり,対話においては聞き役に回ることを大事に考えるからです。口をつぐんで耳を傾け話を聞いてあげることが,相手にはうれしいことであり,そこから生まれる分かり合いが金の価値を持つのです。表現の活発さは有用で銀の価値を,一方で沈黙によって,相手に表現の機会をギブして,聞くことによって,分かり合いという金の価値が得られるのです。この分かり合えたとき(WHEN)に,私は幸せを感じることができるのです。
自分のことは自分がきちんと表現する,それは人権の重要な要素です。もしも勝手に表現されると命令従属関係になります。対等とは真正であることであり,具体的には自己表現権を行使できるということです。
(4)権利分割第4項:WHAT
権利一覧表の第4行目を抜き出してみると,次のようなものになりました。
人権宣言のキーワードは「博愛」です。世界人権宣言では「互いに同胞の精神をもって行動」とあり,共同体での活動が求められています。子どもについては,「最良の利益」として共同体からの利益の確保が約束されます。高齢者・障害者については,「共同社会への参加」が保障されるべきとなっています。人は社会的生き物という定義のように,支え合う活動の精神的根拠である博愛とその具体的実践の形としての参画がセットになっています。
そこで,私個人の幸せの権利として「参画権」による行動を促し,人間としての権利として互いに「博愛」であることを確固とした生活指針に位置づけていきます。そのために人の間では,それぞれ自他で互恵し合い,お互いを排除しないように心掛ける関係が望ましいとまとめることができるでしょう。
【私は,自らの社会的役割を求め参画する】,そして【私たちは,共に社会的責務を分かち互恵を維持する】ことになります。
「博愛する人間関係の人権」があるから,人は共に生きていく同胞との互恵関係に「参画する権利」がある。
○ワタシが幸せに生きていく第4の権利は,社会活動に参画することです。社会権,参政権といった狭義な権利などが想定されています。社会的な目的を持って他者と協働することを通して,人は生きていく糧を得るだけではなく,自らの存在価値(WHAT),平たくいえば,いなければならない人という確かな自覚を獲得することができます。
例えば,入院した際に,見舞いに訪れてくれた仲間から「あなたのいないところは皆でカバーできているので,安心してゆっくり養生してください」と言われたら,「あなたがいなくても困ってはいない」と聞いてしまい淋しくなるかもしれません。「あなたがいないと皆困っているので早く帰ってきて」と急かせることは治療には支障があるかもしれませんが,頼りにされていて励まされませんか?
現実の社会では,めまぐるしく動いて競争を強いられる活動が求められている中では,巡り巡って社会的弱者や少数者を差別・排除する場面が生じやすくなります。そのような権利侵害を軽減しようという時代の流れとして,性差による参画の違いを解消しようとする活動も法的な支援を受けて進められています。また,障がい者に関する社会モデルという考え方で,障がい者が社会に参画することの実現が促進されていくはずです。
※「和をもって貴しとなす」と聖徳太子が言っています。太子が律令制度を始めようとした当時の日本では,あらゆる文化の担い手が中国から,あるいは朝鮮半島から来た人たちでした。こうした人たちといっしょにうまくやっていかなければ,日本は成り立たないという難問に最良の指針が「和」でした。「和」とは,仲良くいっしょにやっていこうという単純なものではなく,全く違っている人間が集まり違ったまま渾然一体となって,一つの響きを醸し出すといった壮大な哲学的目標でした。現在的は国際化であり,そこでは,当然のこととして,違っている人間がお互いの人権を尊重するという要件が満たされているはずです。
※もっと簡単で身近な「和」を再確認しておきましょう。小学校で学ぶ足し算は「和」との出会いです。例えば,男の子3人と女の子2人を足すと? 和は5人です。では,柿3個とミカン2個を足すと? 和は5個です。それでは,鉛筆3本と薔薇の花2本を足すと? 5本ですか。何かおかしいですよね。足し算である和は,同じものだから成り立ちます。男の子と女の子は子どもとして同じだから,5人の子どもが和です。柿とミカンは果物として同じと考えるから5個の果物として和になります。鉛筆と薔薇の花は同じとする概念が存在しないので,和は不可能になります。
人として皆同じである周りの人と分かち合えるモノやことがある生き方として構築した社会活動への参加・貢献できる権利を発揮し,だからこそ互恵を自覚して獲得することが可能になります。平たく言えば,生きる命を維持していく保障を入手できるということです。
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講演採録の第5号は以上です。次号では,人権の構成要素の続き第5,6項を整理していく予定です。
(2024年11月24日)