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【4】 風を迎える
生活は平凡であることが至高であると言われています。日々の暮らしを過不足無く営むために年々資材が蓄積されていきます。家族が増えると同時に衣類は言うに及ばず、家具や器具、食器など少しずつですが増えていきます。季節で入れ替えたり、めったにない必要なときに備えて、さしあたって使わないものが物置にあふれていきます。「いつか使うだろう」と押し込んでいくうちにいっぱいになります。結果として新しいものが入らなくなり、泣く泣く古いものは捨てなければならなくなります。
ことを始めるときには深呼吸をしますが、まず思い切り息を吸い込みます。ところで剣術の柳生流では呼吸法は吐くことから始めるのが極意と聞いたことがあります。古い息を吐き出さねば新しい風を吸い込めないという思考であり、これは前節で希薄な空間が風を呼び込むと述べた事実に符合し、妙に納得しています。
人間の身体を形態的に単純化するとドーナツのような筒になるそうです。臓器の内側は実は外部に直接触れていることになります。口から食物を摂取し、内側の壁との接触で栄養分を取り込み、不用になったものは排出します。栄養物は常に新鮮でなければならないという条件が課せられています。人が有限な包容量しか持ち得ないという限界は、生きることは新鮮さとの接触に支えられている事実と表裏一体のものです。
物質的なことや身体的なものだけではなくて、精神的な面でも同じ原則が成り立っています。古の聖人である釈迦は出家して持てるものすべてを捨てることと引き替えに、悟りという新しい生き方を獲得することができました。仏教では執着を廃すことが大事なテーマですが、それはものや人や命などにこだわりを持つことを止めようとすることであり、言い換えれば捨て去ることです。俗世では喜捨が実践すべき徳目ですが、これも捨てることです。空という概念は欲の根源である執着心を吐き出した心情です。そこに到達すれば新鮮な風を胸一杯に吸い込むことができて、心には平安が訪れます。
新しい風を迎えるには古いものをなにがしか捨てる覚悟が必要となります。そこで一つの問題が出てきます。それは古いものにも残すべきものと捨てるべきものがあり、選ぶ必要があるということです。食物の場合は苦みによって毒を感知し、臭いによって腐敗したものを嗅ぎ分けることができます。古くなると雑菌が作用し異臭を発するからです。人には捨てるべき古いものを見極める自然な力が備わっているようです。ただ今のような自然から隔離した生活を続けていると、その機能を失ってしまうかもしれません。
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