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【5】 風を求める
個人生活をはじめとして、社会なり、組織なり、国家にしても、周期的に「行き詰まり」という状況に至ります。そんなときに新しい風が求められます。
《5.3》 思想の行き詰まり
近代文明は地球が有限であるという境界条件に直面して、環境というキーワードが喧伝され始めています。ところで冗談で語られることですが、地球にとっては酸性雨、オゾンホール、温暖化などはどれも現象としての意味しかなく、その結果生き物が死滅しようと知ったことではありません。環境問題とはひとえに人間という生き物に限定した思考領域内でのみ成立する課題に過ぎません。地球にとっては、人類はいない方が安寧なのかもしれません。神仏の心はどこにあるのでしょうか。
哲学するとは自然の理を解き明かすことであるとするなら、自然における人間のアイデンティティを証明すべきでしょう。地球にとっての人の存在意義を確立しない限り、人は環境問題を真摯に受け止め真剣に取り組むことはしないでしょう。現在環境問題については後発国からの「公害を出す権利がある」という主張に先進国がたじろいでいる状況です。人間社会に張り付いた論理世界に止まる閉鎖的議論だから価値観がすれ違い行き詰まってしまいます。思想世界に新しい風を呼び込む時期です。人間限定社会という閉鎖性に風穴をあけて、生物社会、さらには地球存在の価値を繰り込んだ世界観を構築すべき時期です。オゾンホールからは有害な紫外線が注ぎ込まれますが、同時に哲学の風も吹き込んでいると検知する感性が機能すべきです。
人間存在の公理が明らかになった時点で、人の死、脳死、尊厳死といった新しい課題の閉塞感が解消できるはずです。人のことだけを考えていては、人間の意味は定義できるものではありません。犬が尻尾を追いかけるのと同じです。人の命は何ものにも代え難く尊いというのは今現在生きている生身の人間に限定した世界に成り立つ公理です。失われた命は尊くないという結論が導かれ、死んでいった先人の尊さや、さらにはこれから生まれてこようとする子孫の尊さが無視されています。経済優先の事情が中絶を許容し、健康でない新生児を闇に葬り去ろうとする選別が常識化しようとしています。人の命が医術や技術の対象に引きずり込まれてくると、倫理世界と技術世界を包含するような、自然世界での人の意味を共通理解できる哲学が必須になります。神仏がまだ暮らしに生きていた時代には神仏世界に課題を投げかけ天の声を聞いていれば済んでいましたが、今はそういう大きな傘を閉じてしまい込んでいます。技術と倫理の境界に新しい風が吹きまくっているようです。ビッグバンは経済世界だけの事象ではありません。
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