《ものごころ ついてはじめて 人になり》

 テレビ番組を見ていたら視聴者が応募したビデオ作品に,面白いものがありました。ケーキをほお張って口の周りにクリームを付けている幼い女の子に,母親が手鏡を持たせてやりました。鏡に映っている顔を見て,その女の子はティッシュで鏡の中の口をふいています。いくらふいてもきれいにはなりません。
 鏡を見ながら自分の顔をふくためには,自分を「もう一人の自分」が見るようにならなけばなりません。
 幼いときのことを覚えているのは,ものごころがついて以降です。自分を客観的に見ることのできるもう一人の自分が,ものごころついた自分なのです。
 日記といえば夏休みの宿題を思い出します。何日分かをためてしまうと,日記なんか書いて何の役に立つのかと思ったりします。日記は書くこと自体に教育的な意味があります。一日の自分を振り返るのは,もう一人の自分です。日記を書くことで,もう一人の自分を目覚めさせることができます。読書の効用も同じです。もう一人の自分が物語の主人公になりきって,疑似体験を豊かにします。
 自信とは自分を信じることですが,だれが信じるかというともう一人の自分です。自棄というのももう一人の自分が自分を見限ることで,その終局が自分を殺す自殺です。自分という語も自らを分かる分身と考えることができます。
 「おとうさん」「なんだ」。ごくありふれた父子のやり取りです。ところでお父さんが「忙しいのに」という顔をしていたら,子どもは父親の言葉を聞くよりも,もう一人の父親が迷惑に思っていることを見取ります。もう一人の子どもは,親が思ってもみないほど敏感です。けっして侮ることのないように。

(No.21:リビング北九州:97年7月19日:1215号掲載)