《親心 しつけのときは 隠し味》

 「私は妻以外の女性とキスをしたことがありません」。この文章を読まれてどう判断されましたか。「のろけている」と思われましたか。「愚痴っぽいなあ」と思われましたか。あるいは「ウソー」と思われましたか。同じ文章を読んでも,人によって受け止め方が微妙に違ってしまうことがあるようです。
 よく知り合っている間柄であれば,どういうつもりの言葉かは間違いなく理解されます。ところが知らない人の言葉を読み聞きするときには,真意がはかれないので,どうしても自分の思いを投影して判断せざるを得ません。言葉のこのあいまいさが文章の妙でもありますが,怖さでもあります。
 子どもに対して「そんなことではダメじゃないか」と,しかりつけることがあります。親としては叱咤激励のつもりです。しかりながらも,親心は子どもに発憤してほしいのです。ところが,子どもにはダメという叱咤だけしか伝わりません。親の思いは分からないのです。なぜなら,親になったことがないからです。未経験なことは分かりようがありません。私たちがお年寄りの気持ちが分からないのと同じです。親が親心を分かってほしいと願っても,それは無理な注文です。
 子どものためを思う親心を押しつけると,子どもには訳も分からない重荷になります。親に世話になっているという引け目が芽生え,親に甘えることを控えるようになります。子どもが親を気遣うようになります。自殺をした中学生が遺書の書き出しに「家の人へ」と書いていました。そこには,最後には甘えることのできる肉親としての親ではなく,世話になっている人たちという距離が感じられます。親心は控えめに。

(No.22:リビング北九州:97年8月2日:1217号掲載)