《常識も 時代が変われば 非常識》

 時代の違いを思い知らされる場面があります。テレビが故障して映らなくなったときです。子どもは「なぜ映らないの」とたずねます。子どもにとって「テレビは映るもの」なのです。一方で,連れ合いはふだんから「なぜテレビは映るのか」と不思議のようです。ものごとの前提が全く逆転しています。
 「情けは人のためならず」。今の解釈では,情けをかけることは甘やかすことだから,その人のためにならないのでしてはいけない。昔の解釈では,人に情けをかけておくとやがて巡り巡って自分にも情けをかけてもらえるようになるので,自分のためになるからしておきなさい。昔の人の方がしたたかのようです。
 「親はなくとも子は育つ」。そう楽観して子育てに手抜きをしてきた結果が,信じられない現状を呈しています。もしかしたら,親が何となく前提にしてきた子育てについての常識に,どこか間違いがあったのかもしれません。
 ついこの前まで,なぜ子どもはまっとうに育つことができたのでしょうか。親がそれほど付きっきりでなくても子どもがまっとうに育っていた時代には,地域の大人たちが寄ってたかって,子どもを真っすぐに育てようとしていました。
 ところが核家族の気楽さにまぎれ,面倒な近所づきあいを嫌って人を遠ざけた分,親が子育ての何から何まで背負わなくてはならない羽目に陥っています。地域の子育て機能をすたれさせた現在では,子育てをするのは親しかいなくなっています。「親がなければ子は育たない」という新しい常識が生まれました。
 すべてを背負うか,放り出すか,それともちょっとの辛抱と引き換えに助け合うか,どれを選びますか?

(No.23:リビング北九州:97年8月23日:1219号掲載)