《すねに傷 できてうれしい 親の愛》

 「何度言ったら分かるの」。母親にしかられています。「あなたはいつもそうなんだから」。連れ合いにしかられています。連れ合いはどうして父子とも毎日同じことを言わせるのと嘆いています。内心では人を動かすリモコンでパッと反応させれば,さぞやすっきりすることだろうと思っているかもしれません。子どもは「また始まった」と無視します。パパは「そこまで言うことはないだろう」とご機嫌ななめ。パパは自分の背中を見て育ってくれた子どもに,苦い誇らしさを感じています。
 ところで,アラブには「子どもに教えるのは石に刻むようなもの。大人に教えるのは海に波を起こすようなもの」ということわざがあるそうです。どちらも教えるむずかしさを言っていて,連れ合いの嘆きにぴったりのようです。ただの嘆きならことわざにはなりません。石に刻むのは大変だが跡に残る。一方波は残らない。子どもは教えがいがあるが,大人に対しては無駄に近いということです。
 きちんとしつけを受け入れてくれない子どもに,大人がさっさとあきらめてしまうと何も残りません。安直なインスタント生活に慣れ親しんだ親には,しつけの根気はつらいかもしれません。石のかけらが跳ね返ってきて,痛い思いをしたり,手がしびれることもあります。
 刻みが終わったら,磨きの作業が待っています。石が玉になるのはそれからです。親が身を粉にするつもりで,子どもとこすり合うことです。ふれあいと言えば和やかなものだけを思い浮かべますが,石とふれあうのですから多少の痛みは覚悟しなければならないようです。それができるのは親だからです。痛むのはすねだけではないようです。

(No.27:リビング北九州:97年10月4日:1225号掲載)