《父さんの 椅子に内緒で 座ってみる》

 ある夕方のことです。連れ合いは回覧板を届けるためにちょっと出掛けています。ガスの火の監視を頼まれて,リビングでテレビを見ていると,子どもが入って来て言いました。「誰もいないの」。目の前に父親の私がいてもです。
 夕食の準備ができて,家族が食卓につきます。メニューを見ると,子どもの好きなものがメインです。別に嫌いなものではありませんから,どうということはないのですが,自分がメインではないことに寂しい思いをします。連れ合いにすれば,「昨日はあなたの好きなものを食べさせてあげたでしょ」と言うに決まっています。確かにその通りで,何となく順番になっているようです。
 ご飯茶わんとはしだけはそれぞれ自分のものが決まっていますが,汁わんや皿などのほかの器はだれのものとは決まっていません。時々食事の後片付けを交替するとき,子どものご飯茶わんを洗うときはその子の顔が浮かびます。皿を洗うときはただの皿です。このように物は人とつながることがあります。公共の場所で中座するとき,私物を席に置くのも同じです。
 家の中に父親の座布団とか父親の本とかの専有物があれば,そこに父親の存在が感じられます。家庭にたとえ父親の姿がなくても,父親の存在を意識させる仕掛けがあれば,家族がまとまるはずです。子どものころ,父親の座布団にこっそりと座って,父親の気分に浸ってみたことを思い出します。
 父親の存在感は,父親が自ら生みだすことはできません。父親以外の家族が生みだすものです。母親は父親の不在を嘆くのではなく,父親があたかもそこにいるように子どもに話しかけてくれればいいのです。

(No.29:リビング北九州:97年10月25日:1228号掲載)