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晴天の日曜参観日,連れ合いと二人で通学路を歩いて学校に行きました。雨の日も子どもは歩いて通っている道筋を,多くの親は車で出掛けてきます。到着すると連れ合いはわが子の教室へ,私は会長として校長先生に挨拶へと別れます。
参観日には様子を見るために全教室を回ります。授業中なのに廊下でおしゃべりに余念のない親,わが子の背中をじっと見入っている親,緊張のためか子どもに普段の先生と違うと思われている若い先生。子どもの参観ではなく大人の参観をしている自分に思わず苦笑いが込み上げてきましたが,突然参観とは何かという疑問に歩みを止められました。何を見ればよいのか全く知らなかったのです。思い直して子どもたちの様子を見て回りました。一年生の教室ではわが子もかつてはこんなに初々しかったなと和み,六年生の教室ではわが子と違って随分と頼もしい姿がまぶしく見えました。一人の親としてわが子に比べて子どもたちの参観をした体験が疑問解決の糸口になりました。
発想の逆転をしてみましょう。学校中を参観することで子どもたちと比べてわが子を見ると,わが子のこれまでの育ちの跡,これからのわが子の育ちが見えてきます。親はこんなこともできないのかと無意識に大人の自分と比べて子どもを見ています。これでは子どもはたまりません。子どもたちの中でわが子を見る機会が参観なのでしょう。子どもを未成熟な大人と見なすと焦りが生まれますが,年齢に応じた子どもと見れば育ちが楽しみになります。
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