《非難する 人はいつしか 非難され》

 料理番組を見ているときです。講師が「こうして水を入れたナベを先に火にかけておいてから材料を刻むようにすれば早いですよ」と説明していました。妙に感心して連れ合いにたずねると,そんなことは当たり前と一蹴されてしまいました。ベテランが何げなくこなしていることは,知らない者には説明されてはじめて分かるものです。
 若者がものを知らないと言われます。例えば火を起こすときの夏下冬上,寝るときの頭寒足熱といった暮らしの知恵を説明する言葉を,自分たちは子どものころから知っていたのにという思いが,若者の無知を非難する根拠です。しかし,そこに時代がもたらす暮らしの違いを考慮していないという過ちがあります。現在の若者に教える機会が失われていることを忘れてはなりません。必要になった時が教えるときです。非難だけするのは大人気ないことです。なぜなら教えれば済むことだからです。非難に止まってしまう要因は傍観しているからです。
 昔の話です。副読本に,「とある街の横断歩道を渡れずにいる老婆がいます。誰も手を貸そうとしません。一人の少年が老婆に気づき手を引いて渡してあげました」という話があり,先生が生徒に感想をたずねました。少年は感心であるとか,街の人は冷たく無感心であるという批判でした。ところが,ある子は「この文章を書いた人が一番悪い」と言いました。なぜなら,老婆が困っているのを最初から見て知っているのに傍観者として何もしなかったからです。
 傍観者は当事者より岡目八目と言われるように物事がよく見えますが,他方で責任回避という負い目を背負います。大人は子どもの前では当事者です。

(No.44:リビング北九州:98年4月4日:1250号掲載)