《身の回り 気配りするのが ダンディズム》

 春休みの期間中,連れ合いが帰りのバスで座れないと嘆いていました。バスの座席を子どもたちが占領しているのだそうです。親が立って子どもが座るという風景は見慣れたものですが,子どもが王様という扱いが子どもから我慢という体験を奪っています。昔は親が座って子どもを膝にだっこする風景が普通でした。親子ともに少しの窮屈さを引き受けることが優しい社会でのエチケットであるという共通の理解があったからです。
 子どもの乗車賃が無料とか半額というのは,座席の占有率に依存しているはずです。無料とは膝座席,半額とは二人で座席一つに相当します。このような社会の生きた金銭感覚を子どもに身をもって教えるチャンスを逃しています。
 子どもにものの道理を教えるのは,ことさらあらたまった場で説明的に教えることではありません。普通に暮らしていれば自然と身に付くはずのものです。しかしながら,その普通に暮らそうという覚悟が失われているようです。普通に暮らすとはただ漫然と自分の意のままに暮らすことではなく,少しの緊張を抱える覚悟を持っていることです。たかが座席のことぐらいと社会に甘えている自分に気付かないことが緊張感を失っている証です。
 背筋を伸ばすのに筋肉の緊張があるように,立ち居振る舞いのおしゃれには気持ちの緊張感があります。さっそうとしたという状態は,周りへの気配りが漂っています。道に落ちているゴミをさっと拾い上げて,何気なく立ち去っていく人の背中はさっそうとしています。自分の振る舞いを社会という鏡に映してチェックする習慣を,子どもたちに伝授できるように努力したいものです。

(No.45:リビング北九州:98年4月25日:1253号掲載)