《仲間内 それをみんなと 言う子ども》

 ウィークディには斜め読みをしていた一週間分の新聞を,週末になると切り抜きをするために隅から隅まで読み返します。気分のゆったりしているときに目を通すと,意外な拾いものをします。書評もエッセンスを抜き出してくれるので,物事を見る視点に大きなヒントを与えてくれます。「みんな仲良く」という日本での基本的な教えに対して,米国では「仲良くなる必要はない。嫌いな人と協力できる知恵を持つように」と教えているそうです。
 嫌いな人と仲良くなるというのは望ましいことですが,一足飛びにそうなれる人はいないでしょう。とりあえず一緒に過ごしてみるということから始めてみれば案外と道が拓けてくるかもしれません。和をもって尊しとなすという伝統的指針は嫌いな人とも和を保つことの勧めと理解するべきことなのでしょう。
 アイドルや人気のある事物が掲載されているポスターが持ち去られてしまうという事例がときどき報道されます。皆の物は自分の物という幼さが拭いきれていません。開店祝いの花が時を待たずに持ち去られることもあるようです。公共物という意識の欠如が,早いもの勝ちの窃盗もどきの振る舞いに走らせます。
 みんな仲良くという原則は理想であり,現実には必ずしも実現できません。そこで自分と同じ人間の枠を肉親や友人までに狭めてしまって,その中では仲良くやっているという自己満足に浸ります。それ以外の人は「限定したみんな」とは全く無関係な存在として排除してしまい,やがて公共の世界にも自分と同等の人間がいるという認識を喪失します。嫌いな人とそれなりに共存しようとすることが,公共意識の源泉ではないかと考え直しています。

(No.58:リビング北九州:98年10月24日:1277号掲載)