《暮らしには 母と過ごした 温もりが》

 夕餉のサンマが焼けている間に,連れ合いは私の前にごく自然に大根と下ろし金を差し出します。小学生の頃に母のそばで大根下ろしをしたことを思い出します。夕食後子どもが連れ合いのそばで手伝いをしています。何気ない日常の風景に心和みながら,「母と一緒にいろんなことをしてたくさんの思い出を作れ」と胸の奥でつぶやいています。
 母の思い出として「あれをしてもらった,これもしてもらった」ということばかりではさみしいでしょう。幼い頃の思い出はそれでもいいでしょうが,子ども時代には母と一緒に暮らす日々の中で共同作業という形を体に覚え込むことが大切です。手を動かしながら母とおしゃべりをする中で,子どもは生活の知恵を学び,また自分のことを話してくれます。母にとっては手伝ってもらって楽ができるし,子どもの話も聞けるという,まさに一石二鳥です。母が何でも自分でやってしまって忙しがっていては,気持ちに焦りが湧き余裕も持てません。もっと楽をするようなつながりが家族で暮らす意味でしょう。母が子どもに気を使って手伝いをさせていないなら,子どもは家族の温もりを知らずに育ちます。
 子どもは家庭から巣立っていきます。その巣立ちには助走が必要です。飛行機は飛び立つ前に勢いをつけるために滑走します。家庭で親と十分に触れあいという助走をしていなければ巣立ちはできません。子どもを早い時期から勉強に閉じこめ暮らしから隔離したら,巣立ちの後で必ず失速することになるでしょう。
 暮らしを共にした母との思い出を持てない子どもは,家庭を作るときに苦労します。形は揃っていても,家族の温かさは母譲りの種が必要だからです。

(No.61:リビング北九州:98年12月5日:1283号掲載)