『優しさも 怒り忘れて 意気地なし』
■はじめに
情感の豊かさと気性の激しさは紙一重です。いろんなことが考えられますが,豊かさは内に秘める形,激しさは外にむき出しの形とでも言えるでしょう。歯に衣着せず言いたい放題であることは,いつか人を敵に回します。言いたいことを言える人は,人が利己的であるという遺伝子上の本能を無意識に野放しにしているのです。
言いたいことも言えない,それを内気と言います。文字通り言いたい気持ちを内に秘めています。それが狭い人生経験の中から生きていく処世術と選んだ結果です。したい放題が周りの怒りを買い,手痛いしっぺ返しを受け続けると,自分を出さなくなっていきます。優しい子どもに育てようとして我慢を強いていると,確かに優しい子に育ちますが,優しすぎて内気に追い込むかもしれません。
一体どうすればいいのでしょう? しつけることは必要ですがやり過ぎてはいけない,そんなことは言われるまでもなく分かっていますね。何がやり過ぎかという道標がなければ,しつけの迷いは拭い去ることができません。時と場合によって違うことを前提にして,その道標を探してみましょう。
子どもは育ちのエネルギーがあふれているはずです。外に向かって熱いものを吹き出しながら育っていきます。周りの親はその熱さに辟易することもあります。いい加減にしなさいという声を掛けるときです。知らないこととはいえ,周りに迷惑のかけ通しです。それをいちいち全部封じ込めていったら,育ちを閉じこめることになります。
喜怒哀楽というエネルギーを,周りから許される範囲で噴出させることが大切です。怒りは最も熱いものなので,取り扱い注意です。それだけに怒りのコントロールは熟練の扱いが求められます。怒りを手なづけることができたら,情感の豊かさを失うことなく,意欲溌剌とした育ちが実現します。
【質問10-07:お子さんと一緒に怒ってみませんか?】
《「一緒に怒る」という内容について,説明が必要ですね!》
〇怒り?
怒ってみませんか,とは物騒ですね。綾小路キミマロさんという方の漫談を聞かれたことがありますか? 聴衆をそこまで言うかというほど貶します。年齢のせいで増える顔のしわを苦労して覆い隠そうとしている女心を,無駄なことと言い切るのです。失礼ですね。でも,大爆笑を誘います。
会場では,ずばっと切り込まれて,怒れなくなっています。私のことではないという安心感に逃げているのかもしれません。ところで,もし面と向かって言われたら,それがたとえ連れ合いであっても,カチンときますね。怒りますよね。本当のことであり,自分でも十分に分かっているはずですが,それを他人から突きつけられると,反発したくなります。
逆鱗に触れるという言葉があります。人を怒らせる方法です。忘れよう,考えないようにしようとしていることは,ウィークポイントです。そっとしておいて欲しい,触れられたくない,そんな逆向きになっている鱗が龍の顎の下に一枚あります。それが逆鱗です。そこを触られると龍は怒るのです。
フーテンの寅さんが,「それを言っちゃお終えよ」って言います。言ってはいけないこと,触れてはいけないことがあります。言った本人は何気ない一言でも,言われた方にはぐさっと突き刺さる物言いがあります。売り言葉に買い言葉となって,激情に火をつけます。
人は誰しも弱みを持っています。弱みをさらけ出されたら,我を忘れるほどの怒りが噴出します。そんなに怒らなくてもいいのにとか,何を怒っているんだろうと,他人は思います。子どもは親の痛いところをズバッと切り込んできます。似て欲しくないところが似てきます。憎らしくなることがあるかもしれません。
怒りでカッとなることがあります。それをどのように短時間で処理するか,その訓練を積んでおかなければなりません。ちょっとだけ怒るようにすれば大丈夫です。実のところ,怒りを感じることは大切です。若者が怒りと真っ直ぐに向きあっていないことが,気になります。
・・・怒りは生きていればあって当たり前です。・・・
〇堪忍袋?
ちょっとだけ怒ればいいと言われても,そんな上手い方法があるわけないでしょう? でも,諦めないのが人間です。怒りを無くす,怒りという感情を無くすのは,厳しい修練が必要でしょう。普通の人間にはとうてい無理難題です。それなら,怒りと上手に向きあうしかありません。どうすれば?
昔は「頭に来た!」,今は「キレタ」。この違いは何でしょう? 昔は「腹が立つ」,今は「ムカツク」。表現の違いから何かが見えてきます。昔は頭や腹に怒りが一時保管されていますが,今はキレテ吹き出し,ムカツイて吐き出しています。つまり,怒りの溜を失っているのです。
怒りが対人関係において危険であるのは,怒りの暴走です。ついカ〜ッとなってという言い訳?がよく出てきます。誰だってカ〜ッとなることはありますが,みんながみんな暴走するわけでもありません。怒りを堪える我慢とは怒りを包み込むしなやかな堪忍袋を持つということです。堪忍袋の緒が切れたと言われてきた,あの堪忍袋です。
カッとしたら深呼吸をする,それもまず息を抜いてからゆっくりと吸い込みます。息を完全に抜くことで身体から力を抜いて,新鮮な空気を腹一杯に吸い込みます。そうすれば堪忍袋が大きく膨らみます。カッとしたときは普通は息を止めるものです。息を止めるのは攻撃準備と同じになります。怒りを暴走体制に直結することになります。暴走が終了するとハアハアあえぐのは,息を詰めていたからです。
そのほかに,怒りを飲み込めとか,腹に力を入れろとか言われています。これも怒りを腹に閉じこめる積もりになる方便です。腹が立つのは,怒りが腹に溜まるからであり,溜めている限りは暴走を一時保留にできています。
ママに叱られて子どもが怒っているとき,鼻息荒く息を吐き出していますよね。決して吸い込んではいません。必ずフーッと吐き出します。腹に溜まった怒りを思いっきり吐き出そうとしているからです。「おれは怒っているんだ」という必死のメッセージです。怒りのエネルギーを感情表現のエネルギーに変えているのです。健気ではありませんか?
・・・怒りにはきちんと腹を立てることです。・・・
〇許し?
怒りを人に直接に向けるときには,「もう許せない」と堪忍袋の緒を切ってしまいます。怒りがあっても,その対象に対してかなりの許しを与えているのです。この許しの範囲は相手との親密さに逆比例します。親しくない人に対しては,ほとんど許しがありません。街中の道で行き交う見ず知らずの人が肩を触れ合ったら,すぐ喧嘩になります。
親しい人に対しては許しの範囲が大きいのですが,一旦緒が切れるとその怒りはとても大きなものになります。積年の恨みという様相に逆転します。堪忍袋にはたくさんの怒りが押し込められていたからです。喧嘩するほど仲がいいという逆説がありますが,喧嘩という怒りの発散によって堪忍袋をいつも空にしているので,致命的な怒りの暴発が起こらないからです。
ママのことを古風にはお袋と呼びます。その名の通りに,ママの堪忍袋は子どもに対してはかなり大きなものです。たいていのことはママの前では許してもらえます。子どもがのびのびと育つのは,その安心感があるからです。ところが,往々にして,ママはその能力を逆用することがあります。今日の怒りに昨日一昨日の怒りを一緒に重ねるのです。「あなたはいつも・・・」と,堪忍袋から古い怒りを持ち出してきます。
ママの子どもに対する怒りは注意しなければなりません。何を注意すればいいのでしょう? 怒りは感じる方の一方的な気持ちです。何を怒るかは怒る人が決めているからです。子どもはママが何を怒っているのか分からないことがあります。そのことが「どうして分からないの!」という新たな怒りを呼び込みます。その果てが虐待に向かいます。
はっきり言えば,ママが勝手に怒っているということです。子どもの意図ではなくて,仕方のない仕儀なのに,ママには不都合が生じているだけです。子どもがパパに言われて取ってあげようとした醤油サシを倒します。テーブルクロスに吸い込まれる醤油を見て,ママはカッとして怒ります。せっかく洗い直したのにと,台無しにされたことへの怒りです。
子どもは不始末をしでかすものです。「ア〜ア」と許しておけばいいのです。その余裕が,子どもに「ごめんなさい」と言う機会を与えます。怒っても仕方のないことがある,怒りの仕分けをできるようになることが,子育てをしていて親が育つという一面なのです。
・・・子どもに甲斐のある怒り方を教わってください。・・・
〇怒りを表す?
怒りとはそのまま表立たせるとかなり刺々しいものです。罵詈雑言から暴力へと怒りが怒りを増幅していきます。暴走は何かを破壊しない限り終わりません。腹立ち紛れに手当たり次第にものを壊すということが普通ですね。八つ当たりされた方はたまりません。あまりいいことはないようです。
しかし,世間にはスクラップアンドビルドというプロセスを必要とする場合もあります。セクハラなどそのよい例です。女性から発せられる怒りのエネルギーが男性の旧弊した概念を壊さなければなりません。怒りを見せることで気付かせて,内部崩壊を誘うという効果も必要です。
人は他人の怒りには鈍感です。痛みというセンサーが働かないからです。痛みを与えた方は気が付かないし忘れてもしまいますが,受けた方は忘れられずに恨みへと変質させていきます。人の痛みが分かることは,社会生活上の基本ですが,それをどうやって自分の能力にすればいいのでしょう?
気が付かないうちに人を怒らせてしまうことはあり得ます。ちょっとした一言で相手の顔色が変わることがあります。それをしっかりと見取ることです。同時に怒りを感じた方はそれとなく相手に分からせるようにした方がいいでしょう。何を言われてもへらへらしていると,相手は気付かずにズカズカと踏み込んできます。怒りは小さいうちに収めておくことです。
どういうことに対して自分は怒りを覚えるのか,自分の怒りを知ることも大切です。人の思いはかなり重なる部分があります。そこに共通する怒りもあります。自分の怒りを弁えていれば,他者に対して気配りをすることができます。子ども時代のたくさんの喧嘩,怒りの体験を積むことで,共通の怒りを自然に避ける術を学ぶことができます。
怒りを感じることで他者に向けないようにする,その訓練をするのは小さいときから始まります。小さいときの怒りは怒りも小さいからです。幼い子どもは,気持ちの切り替えが早いですよね。怒りを恨みに変えることはしないので,いい時期です。嫌だといって泣きわめくのも,子どもにすれば怒っているのです。なだめるのではなくて,怒っていることを分かってやってください。
・・・怒っていることを分かって欲しいときもあります。・・・
〇パパの出番?
うるさいと言われてカッとなって殴り殺してしまう? 少年の無軌道と言うには当たらない,ある意味で不幸な育ちが悲しまれます。自分の怒りにじっくりと付き合った経験がないからです。怒りをどう扱えばいいのか知らないままに,力だけが強くなっています。抜き身の狂気がその辺を自由にうろついているような怖さを感じます。
子ども時代によその大人に「うるさい」と怒鳴りつけられたら,ムッとしてもグッと歯を食いしばることを何度も経験できたはずです。乗り物や図書館などで「静かにしなさい」と子どもがきつく注意されたとき,親が注意してくれた大人をにらみ返したり,逆に言い返したりすることが珍しくありません。親として人には言われたくないという気持ちも分からないではありませんが,その怒りはやはり飲み込むべきものです。
怒りを我慢せずに思い通りに吐き出して対抗しなさい,というしつけを親自らが手本になってしていることに気付いて欲しいのです。悪いことへのしつけをするときは,親は大人になっていなければなりません。子どもを庇おうという本能のままではしつけをする資格が問われます。怒りを抑えることは不愉快なものです。不愉快さを苦い薬にして,社会的なしつけができていきます。嫌な目には遭いたくないから静かにしておこう! それが最初の一歩です。
気持ちのひ弱な子どもが育っています。嫌な目に遭うと無茶苦茶に対抗しようとします。我を忘れてパニック状態に陥ります。打たれ強くありません。コツンコツンと打たれていたら,小さなトゲも消えると同時に,痛みに対する耐性も持つことができたはずです。だからといって,ことさら四六時中怒らせておくということではありません。
友だちと遊んでいるときなどに出会う怒りのように自然に出会う怒りの場面を,誤った親心にほだされて手厚く排除しないようにすることです。誤った親心と言いましたが,ママには少しきつい言い方です。本当は怒りのしつけはパパの役割です。ママにはやはり子どもを庇う役割が無理がありません。
どんなときに怒るべきか,何に対して怒ればいいのか,本当の怒りとはどういうものか,それを教えるのは闘争心の多いパパの役割です。怒りのしつけを父親がしてこなかった,それが自分の怒りを扱えない子どもに育ててしまった大きな要因です。
・・・怒りはいざというときのための伝家の秘刀です。・・・
〇怒りあれこれ?
自分の存在を脅かされるときは外に向かって怒っていい,いじめられそうになったら相手に向かって怒ればいい。バカにされたぐらいでは外に向ける怒りに値しない,貶されたぐらいでは相手に向けるほどの怒りではない。からかわれたぐらいでは無視すればいい,嫌みを言われたぐらいでは聞き流せばいい。
社会の不条理には怒りを込めて反発すればいい,世間の理不尽には怒りの声を向ければいい。仲間と一緒に正そうとする怒りに振り向ければいい。非道を前にしたら怒りで正義の火を燃やせばいい,弱者を守るためにこそ怒りの義憤を解放すればいい。困窮を見かねた怒りの涙を創造に打ち込めばいい,破壊に出会った怒りの槌を建設に振るえばいい。
小さな迷惑に怒りは似合わない,不都合な状況に怒りは適しない。お互い様に目くじら立てる怒りは無用のもの,怒鳴る声に怒り声の応酬ははしたない。不手際に尊大な怒りは心貧しさ,意に染まない仕儀にわがままな怒りは意気地なし。怒りは鷹揚に構えてこそ,怒りらしくなる。
荒ぶる怒りは大鉈のごとく,真っ向から振り下ろせ。その的は人ではなく,悪意に向けて。猛々しい怒りは雷のごとく,一直線に突き進め。その的は人ではなく,邪心に向けて。無闇に無分別な怒りは,その理由の正義さえも悪意に塗り替えるもの。くれぐれも怒りの取り扱いにはご用心あれ。
少し気取って文体を改めてみました。短文化することで,冗長な説明を省略できるからです。怒りについて論じると,多言を必要としそうです。ただ,怒りを悪しきものとして遠ざけることは,子どもにとって必ずしもよい結果を生まないということをお伝えできたら,この講は役割を果たしたことになります。子どもから怒りを奪うのではなくて,怒りの正しい力を生かすように導いてください。
・・・怒りという火薬も上手に使えば生きる力を生み出します。・・・
《一緒に怒るとは,怒りとのつきあい方を教えることです。》
○マイナスイメージの強い怒りを敢えて取り上げました。最近の若い男性を見ていると,覇気が感じられません。青年期は自らに社会に怒りを感じる時期です。何も昔のようにデモ行為を期待しているわけではありません。何かに向けて怒るような思いを内に秘めていて欲しいだけです。
優しさは怒りという強さが背景にあってこそ,周りの人を守ることができます。暴力としてしか怒りを表せないようでは,優しさは生まれません。セクハラに走るいじましさ,DVでしか接することのできない愚かさは,真性の怒りを秘めていないせいです。
【質問10-07:お子さんと一緒に怒ってみませんか?】
●答は?・・・もちろん,「
イエス」ですよね!?