*** 子育ち12章 ***
 

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「第 10-08 章」


『喜びが 生きる力の 道しるべ』


 ■はじめに

 前号では「怒ってみませんか」と書いておきました。子どもを情感豊かに育てようと願うなら,優しいだけでは十分ではないでしょう。大切なことは気持ちのバランスです。甘いだけではなくて辛さも欠かせません。辛さ・苦みがあるから甘さが引き立ちますし,甘さの意味があり,甘さ過剰になることもなくなります。

 人の気持ちを一言で表せば,喜怒哀楽です。この言葉を分解すると,喜びと怒り,哀しさと楽しさのペアになります。この二つのペアは性格が異なっています。哀しい顔,楽しい顔と言えますが,喜しい顔,怒しい顔とは言えません。怒りとペアになっている喜び,そう考えると,怒りと喜びがバランスを持つことで健全な感情と言えそうです。

 怒ることができなければ,喜ぶこともできないようです。この二つは表裏一体になっています。蛇足ですが,怒るといっても八つ当たりのような無意味な怒りでないことは明らかですね。不正に対するような真っ当な怒りです。教訓風に言ってしまえば,悪に対して怒り,善を喜ぶというイメージです。

 今号では,怒りとペアになっている喜びについて考えてみることにします。喜ぶことについては,誰しもそう願っていることですから,改めて考える必要はないかもしれませんが,少し整理しておきます。普段あまり考える機会はないでしょうから,これをよい機会にしてくだされば幸いです。

 ママはどんなときに喜びますか? ママは何を喜びますか? ママはなぜ喜びますか? ママはどんな風に喜びますか? そういえばいつの間にか喜ぶってことがないままに,生活に追いまくられているみたい? もしもそうであったなら,是非この機会に喜び探しをしてみてください。

 喜びという感情は誰でもいつでも胸に抱えているものです。それを引き出してやらなければなりません。引き出すのは自分です。喜びとは自分で感じるものです。人に言われて喜ぶものではありません。喜べないのは,喜ぼうとしていないからです。そう信じてみませんか?



【質問10-08:お子さんと一緒に喜んでみませんか?】

 《「一緒に喜ぶ」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇心配?

 歓楽街を浮遊しているティーンエイジたちに,「親が心配しているでしょう?」と声が掛けられます。「なんの心配? どうして?」。不思議な問答であり,二の句がつげない有様です。どんな育てられ方をされたのかという疑問が湧いてきます。直接的に言えば,育て方を間違っているのではなくて,育てていないと言った方が正しいようです。

 親は幼い頃から子どもにあれこれと指導をします。それが育てる責任だと勘違いしています。子どもはいちいち干渉されていると受け取っています。命令する親と服従する子どもという関係しかありません。この羅針盤の今のバージョンでは「一緒に」という言葉を秘かなキーワードにしています。上下関係ではなくて,横並びの関係を持って欲しいと願っているからです。

 手を取り合って,我がことのようにはしゃぐ親子という関係を大事にしてほしいのです。気持ちを分かち合う,最も親密な間柄が家族です。それは友だち関係ではありません。信頼という絆で結ばれた,あくまでも親子なのです。

 子どものことが心配だから,あれこれ言いたくないことも言わなければならない。そうですよね。親とはつまんないものです。しかし,その報われない思いを子どもにさらけ出す大人げなさが,子どもからの信頼を失わせます。「こんなに心配しているのが,あなたには分からないの」と言ったりしていませんか? それが余計な一言です。どこが・・・?

 ママの心配する気持ちを分かって欲しいと,子どもにおねだりしているのです。子どもは大人のせつない思いを背負えるほど強くはありません。そんなお荷物を背負わせようとする大人は,大人らしくないと見限ってしまいます。ママは自分が心配したくないから,子どもの私にあれこれ押しつけてくるんだと察します。

 子どもには親が何を心配しているのか分からなくなります。自分勝手に心配しているだけ,そう突き放さなければ自分が押し潰されそうになるからです。帰りが遅くなったら,黙って迎えに来てくれる。気が付けばいつも傍に付き添っていてくれる。一緒にいるんだということだけを子どもに伝えてやればいいのです。気にかけていてくれると子どもが気付いたとき,親が誰の心配をしているのか分かってくれます。

・・・親の心配は親だけが抱えるから,子どもにはありがたいのです。・・・


 〇期待?

 「歩いた!」。そんなうれしいことがありましたね。「どうして歩けないの?」と思ってはいなかったことでしょう。歩けないことが分かっているから,今日明日のこととは思ってもいなかったはずです。それが,ある日突然に,ひょいと歩きます。それを見たとき,抱きしめて喜びましたね。

 思いがけず花束のプレゼントを渡されたら,感激しますね。期待していないときほど,喜びは大きくなります。もしも事前に分かっていたり,そうなるはずという思いがあれば,大してうれしくはないでしょう。喜びたいと願うなら,あまり期待はしない方がいいようですね。

 子どもが大きくなってくると,「どうしてできないの?」という形に期待が膨らんでくるものです。親ですから当然です。でも,ちょっとだけ心を覗いてみてください。自分が困るからそう思っているのかもしれません。思い通りになる子ども,世話の手が掛からない子どもであって欲しいと,ちょっぴり望んでいませんか? そんなことはないと分かれば,喜びの態勢に入ることができます。

 ところで,釣り好きな人は気が短いと言われます。太公望のようにじっくりと釣りをする人は少ないようです。今釣れるか,もう釣れるか,ジリジリした気持ちを持っているから釣れたときの喜びがあります。いつ釣れるかなど気にせずに,いつか釣れるだろうとのんびり構えていれば,釣れても喜びは感じられないかもしれません。

 期待しないように,でも気短に待つ方がいい? 矛盾していますね。どのように考えたらいいのでしょう? 魚が餌に食いつくのは僥倖だと分かっています。食いつくはずだと期待すれば,釣りは面白くなくなります。滅多にないこと,それも相手に任せきっているところが肝心なポイントです。食べないのは魚が悪いと責め立てることはないはずです。何となく伝わりましたか?

 望みが実現したらいいな,時期が来るまで今か今かと待っている,ひたすら無心に待てることが喜びをじわっと引き出していきます。子育てではどうしても手の届くところに子どもがいますから,つい掴まえて無理矢理望み通りにしようと焦ってしまいます。台無しです。そのうちできるだろうと待つことを止めたら,できても「あっ,そう」という感じで受け止めて,喜びはないでしょう。

・・・子どもの成長を楽しみに待つ,それが子育ての喜びです。・・・


 〇生きる力?

 普段の暮らしの中で身に降りかかることは,良いことも悪いこともあります。そんな中で,人はどのように生きているのでしょう。マイナスを克服する力が怒りから生まれるとすれば,プラスを増幅する力は喜びから生み出されています。お手伝いを喜んでする子どもがいます。よいことをしているという自覚が喜びの燃料になるからです。

 していいこととわるいことがあります。それを知っているだけでは力になりません。力,つまりパワーは気持ちの燃焼の結果ですから,怒りと喜びという燃料をふんだんに掘り出さなければなりません。前向きな生き方,それは気持ちの噴出,つまり喜びの道を開通できている姿なのです。しらけた感情は涸れ井戸ですから,力は生まれようがないのです。

 よいことだからしなければならないと教えることは簡単です。一回言えば子どもは理解します。でも,それだけのことです。よいことは私がしなくてもいいじゃないの? どうしてボクがしなければならないの? 誰かがすればいいのに? それはよいことが自分にとって何の関係もないからです。

 子どもがよいことをしたら,一緒に喜んでやります。親の喜びが子どもに伝染します。喜びたいと願う欲求が自然によいことをする結果をもたらします。よいことをすると自分が喜べるなら,積極的に取り組めます。そこまで身に染みこませることがしつけです。頭ではなく心でよい行動を選ぶようになれば,それが生きる力の拠り所になります。

 子どもは何を喜べばいいのか分かりません。親が生きる力になる喜びを見せてやる必要があります。例えば,家事を子どもの前で嫌々している姿を見られたら,家事とは喜びではないと覚え込んでいきます。家事なんてうるさい用事と育てたいなら,そうすべきです。でも,家のことに喜びを見つけられないと,人を愛する喜びを教えられません。

 家事を喜びとするようにみんなが育つべきだと言っているのではありません。家族のつながりの基本的な表現方法として,家族のために手を動かすことが最も分かりやすいのです。家族のためにすることを喜びとしない人が,世間でいいことをできるわけがありません。

・・・生きる力を発揮する喜びが自給できるときに自立できます。・・・


 〇ありがとう?

 宝くじに当たれば喜ぶことでしょう。でも,なかなか当たってくれません。美味しいものを食べると喜べます。迷い道から無事に抜け出せたら喜びます。抱え込んだ問題が解決したら喜びます。捜し物が見つかったら喜びます。優勝したら喜びます。入賞したら喜びます。事態がよい方に向かったとき,人は喜びます。いろんな喜びがあります。

 ヤッターと喜ぶ子どもを見るのはいいものです。子どもに喜びを与える手軽な方法は,ものを与えることです。豊かな暮らしでは,ついついその方法を採用したくなります。でも,こうして得られる喜びは育ちとは無縁です。かえって育ちを妨げることになります。

 ありがとうという言葉はとても大事な言葉です。プレゼントをもらったら,ありがとうと言います。ありがとうの喜びです。この喜びは誰かに頂く喜びです。このタイプの喜びしか知らないと,いつも誰かにおねだりするしかありません。自分の力で喜ぶことができないのです。やがて,喜ばしてくれないことを恨むようになります。これでは自立することなど覚束ないでしょう。

 欲しいものがある。それを親が買ってやるのは簡単です。そうせずに,子どもがお小遣いを貯めます。少しは親が援助しても,子どもが自分で欲しいものを手に入れる努力をしなければなりません。自分の力で手に入れたとき,その喜びは子どもの中から湧き出してきます。親から着せられた喜びの仮衣装ではなくて,身の丈に誂えた喜びになります。

 豊かであるということは,人にとって喜びです。そこで人は努力を重ねて,現在のような物の豊かさを作りだしてきました。喜びいっぱいのはずですが,素直に喜べないのはどうしてでしょう。それはありがとうの豊かさだからです。若者が貢がれたブランド品をあっさり換金できるのは,浮き草的喜びでしかないからです。

 物の豊かさではなくて,心の豊かさが求められています。では,心の豊かさとはどういうものでしょう。お金では手に入らない大事なものがありますが,それは何であり,どうすれば手に入れることができるのでしょう。それを子どもにしっかり教えておくのが親の務めなのです。このことを次に考えておくことにしましょう。

・・・ありがとうの喜びは,浸りすぎるととても危険です。・・・


 〇どうぞ?

 人には妬みや嫉みがあります。それは怒りの不完全燃焼です。じわじわと燻っているので,心の目が煙たくなります。吹き払えばいいのですが,それは喜びというそよ風です。人が喜んでいる姿を煙たい目で見るより,素直に澄んだ目で見た方がいいとは分かっていますが,その切り替えがなかなかできないのは哀しいですね。

 まず,子どもと一緒に喜ぶということからはじめるといいでしょう。親は子どもの喜ぶ顔が見たいものです。喜んでもらえたら,喜びを素直に分けてもらえますね。喜びは一緒に喜んでもらえる人がいれば倍増します。一人でこっそり喜んでいれば,不気味ですね。

 親子で喜ぶ体験が豊かな子は,妹が喜ぶから,おじいちゃんが喜ぶから,イヌが喜ぶから,お花が喜ぶから・・・と喜びを周りにまき散らすようになります。ときにはやり過ぎや思惑外れもあるでしょう。ママが喜ぶだろうと余計なことをして,叱られてしまいます。頭ごなしに叱るのではなくて,子どもの気持ちをきちんと引き取ってあげてください。

 子どもがお茶碗を洗ってあげると言います。洗い残しや,流しをベチャベチャに水浸しにします。少々の失敗はあってもいい,大事なことは喜んでもらおうとすることであると覚悟をしてください。動機は間違っていないのです。ちょっとだけやり方が拙かったに過ぎません。どうすればよかったのか,正しい方法をおいおい具体的に教えておけば済むことです。

 できもしないくせに,余計なことはしなくていいの! こうして子どもの気持ちを一蹴すれば,確かに後始末などの面倒は一掃できるでしょう。でも,それでは,せっかく芽ばえようとしている喜びの芽を根こそぎ引っこ抜いてしまいます。もう二度とママを喜ばせようとは思わないと決心させます。

 親はきちんとできるという型にこだわります。それは目標に過ぎません。到達するまでには長い道のりがあります。その道のりを諦めることなく歩ききるためには,喜んで取り組むという積極性が不可欠です。喜ばせたい,それは人の世を渡るために最も大事なパスポートなのです。

・・・喜ばせたいというどうぞが,人間関係の心の豊かさです。・・・


 〇育ちの芯?

 中学生たちが同級生を恐喝しその父親の退職金をキャッシュカードで引き出したという事件が報道されていました。人からありがとうともらう喜びしか知らないから,巻き上げようと図ります。考えるという働きをするはずの頭が麻痺させられ全く機能していません。モノの豊かさの副作用に犯されていると言うことができます。

 万引きする子どもたち,自転車を乗り逃げする子どもたち,みんなありがとうと受け取る喜びを求めています。ひったくりをして悪びれない子どもたち,自分たちが喜ぶことをして何が悪いとうそぶいています。オヤジ狩りをする子どもたち,およそ非行の動機にはありがとうの喜びが潜んでいます。

 ありがとうの喜びしか知らない子どもは,人から奪うことを願っているので,信頼できる友だちができません。人と仲良くすることができません。誰だって奪われることは嫌ですから,付き合いたくないのです。こうして人づきあいが成立しなくなっていきます。人間関係から逃げていきます。

 親なら我が子が人に好かれる子ども,誰とでも仲良くできる子ども,優しい子どもに育って欲しいですね。そう願うなら,そのように育ててやらなければなりません。難しくはありません。ドウゾが言える子どもに育てればいいのです。ドウゾは行きずりに出会う見ず知らずの人に対しても言える言葉です。困っている人にドウゾと言うこと,いつでもドウゾと人を喜ばせることができるなら,誰とでも仲良く優しくつきあえます。

 ボランティア活動に対してもドウゾという喜びがあれば,自然に取り組むことができます。確かに,ドウゾと言えば余計な手間と出費が降りかかってくるはずです。出すのは舌でも嫌というケチな根性ではできません。それでも,お金では買えない心の喜びを得ることができます。

 現実世界では,そんな甘い考え方は通用しないでしょう。足をすくわれて痛い目を見るのが関の山かもしれません。しかし,それに対するリスク管理は後から備えればいいことです。本音のところで真っ当に育っていなければ,胸を張って生きる姿勢が整いません。堂々と生きる,自信を持って人に臆することなく生きるためには,生きる芯が必要です。育ちの途上できっちりと埋め込んでおかないと道を踏み外し,後から追加はできません。

・・・子どものときに持たせておくべき大事な言葉があります。・・・



《一緒に喜ぶとは,生きる道案内をすることです。》

 ○何を喜べばいいのか,そんな問を考えてみました。心底喜ぶことが少なくなって,見せかけの喜びに子どもたちが振り回されているような気がしています。近くで走り回っている子どもたちは,無邪気に遊んでいるように見えます。童心に返ると,素直な喜びが思い出されます。

 その素直な喜びのままでは,大人にはなれません。大人としての喜び,社会的な意味を備えた喜びに脱皮することが求められています。個性が時代のキーワードですが,それは社会性という対立項があることによって意味を持ちます。個性がわがままに変質したのは,社会性を喪失したからです。


 【質問10-08:お子さんと一緒に喜んでみませんか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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