*** 子育ち12章 ***
 

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「第 10-09 章」


『お世辞でも 素直に聞けば 心地よい』


 ■はじめに

 歌番組がほとんど見られなくなりました。ディスクを媒体として広がっているのでしょうか? ラジオでは音楽番組もまだありますが,主流はおしゃべり番組です。もっともカーラジオしか耳にしない程度のリスナーですから,いたって個人的な印象です。

 歌手の方々は舞台公演やコンサートに集中しているのでしょうか? 歌手と聴衆が,メディアを通して間接的につながるのではなくて,肉声で直接お互いに触れ合う形に落ち着いているのであれば,とてもいいことです。

 若い人たちのコンサートでの熱狂ぶりを,テレビなどで垣間見せてもらうことがあります。クマのおじさんにはとてもついていけないという感想を持ちます。おばさま方も愛子様の追っかけなどにフィーバーしているようで,負けてはいません。気取ったおじさま方が冷ややかに見ていると,バカバカしい騒ぎとしか見えてこないでしょう。

 誰に迷惑を掛けているわけでもないから,私の勝手でしょ! そんな開き直りを露呈するまでもありません。悪さをするのではない限り,何かに熱中することはいいことです。体内のエネルギーを発散できれば,気分は爽快です。誰に遠慮する必要もないでしょう。

 ところで,一つの心配があります。日常の感動が少なくなっているのではないかということです。メディアによる扇動に乗せられ,ゲームの世界に誘惑され,作られたインスタントな感動に取り込まれているようです。ゲーム場に入ると,喧噪な音とどぎつい光が感覚の限界点まで襲いかかってきます。有無を言わせない強制力で感動とはほど遠い麻痺状態に追い込まれていきます。

 足が痺れたら,感覚が失われます。視聴覚の痺れを繰り返していると感覚が麻痺して,日常レベルの刺激に対して不感症になるはずです。「何か面白いことないのかな」という中毒症状が現れてくると危険な状態です。万引きなどの許されない行為がもたらすマイナスの刺激でも厭わなくなります。感性の鈍化を阻止することが,今の作られた社会環境の中では人間養育に不可欠なものの一つです。



【質問10-09:お子さんと一緒に感じてみませんか?】

 《「一緒に感じる」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇五感?

 外界の刺激を受け止める感覚が五感であり,視覚,聴覚,嗅覚,味覚,触覚です。視覚は色を感じます。色といえば,#五色の短冊という歌詞がありましたね。赤,黄,青,黒,白です。五味というものもあって,酸味,苦味,甘味,辛味,鹹味です。鹹味は馴染みがないかもしれませんが,カンミと読み,塩辛い味です。五臭や五音もありますが省きます。

 人が生きるというのは,外部環境に適応することです。適者生存という原則が人の進化を促してきたと言われています。適応できなければ生きられないという現実は,今も十分に実感できます。ところで,現在の日本にもたらされている豊かな環境はとても快適です。それはいいのですが,論調っぽく言えば,環境の方を人に適応するように無理矢理変えてきたせいで,人の五感が退化させられている気配があります。

 朝目覚めて寝具から出たとき,寒暖の差を感じます。衣服の枚数を加減する判断ができます。わずかな観測ですが,それをちゃんとできないと風邪を引きます。季節の変わり目には特に注意しなければなりません。これは頭で考える事柄ではありません。肌で素直に感じる事柄なのです。

 朝カーテンを開けて,外を眺めます。風景から今日は寒そうだなと思います。でも,家の中はあったかです。寒さを感じることはありません。たとえ外が寒くても,大人が過ごす場所は車であり電車であり勤務先であり,閉じこもった快適空間です。

 子どもはそうはいきません。外で過ごす時間をかなり持っています。親自身の肌感覚が封じ込められているので,子どものこまめな衣服の調整がつい手抜かりになります。こうして家庭で真っ先に風邪を引くのは子どもということになります。

 他の感覚についても,後述するように感性の鈍化が至るところで見受けられます。適応するということは感覚を働かせて,感じ取った環境に相応しい態勢を整えることです。感覚が閉ざされていたら適応のしようがありませんし,なにより態勢そのものが身に備わらなくなります。子どもの育ちには,感覚的な体験も大切です。

・・・五感がきちんと機能しなければ適応できません。・・・


 〇感受性?

 いつも目にしているのに,覚えていないことがあります。見ていても見えていないのです。聞こえているのに聞こえないこともありますね。聞こえない振りをすることも可能です。関心がなければ目と耳は簡単に閉じることができるようです。

 優しい子に育つためには他人の不遇に対する感受性を,誠実な子に育つためには降りかかる不正に対する感受性を,好かれる子に育つためには人の喜びに対する感受性を持たせなければなりません。簡単に言えば,人の気持ちが分かるということです。

 ところで,ママは子どもの気持ちがある程度は分かりますね。でも,お年寄りの気持ちはほとんど分からないでしょう。子ども時代の経験はあるけど,老年時代の経験はないからです。人は自分の体験に照らして気持ちを理解しています。「あのとき自分はこんな風に感じた」,その記憶が「いまこの人はこう感じているだろう」と重ね合わせるのです。

 自分の気持ちを分からなければ,人の気持ちも分からないのです。自分がして欲しいことを他人にしてやれ,自分がされて嫌なことは他人にするな,この二つの言葉は人づきあいの金銀の道徳律と呼ばれています。もちろん環境や立場などの違いがあり,必ずしも自分の気持ちが他人の気持ちとぴったり重なることは望めませんが,大筋では違わないでしょう。

 言ったり言われたり,取ったり取られたり,ぶったりぶたれたり,押したり押されたり,追い越したり追い越されたり,待たせたり待たされたり,書いたり書かれたり,愛したり愛されたり,してあげたりしてもらったり,教えたり教えられたり・・・。主客の経験が豊かであれば,他人の気持ちに対する感受性としてそのまま移し込まれます。

 もちろん,人の気持ちはそう単純ではありません。折角の善意が余計なお世話に転換することさえあり得ます。それもまた,経験として追加しておかなければなりません。すれ違いをおそれて当たり障りのないように逃げていると,いつまでも感受性は開かれなくなります。まずは,親子の間で気持ちの通い合いをたくさん経験させてください。

・・・自分を知ることが他人の気持ちを分かるための扉です。・・・


 〇過敏?

 感受性が鋭いとか鈍いとか言いますね。これは二つの作用に分けて考えることができます。一つは関心があるかどうかという受信の意志です。関心があることはよく目に入り耳に入ります。もう一つは受信情報に対してどのように応答するかということです。音量つまみが大きく回されていると,大音響になります。

 ちょっとした一言で,カアッとなることがあります。痛いところをつかれた場合です。痛いところとは過敏な応答を待ちかまえているところです。人は誰でも痛いところを抱えているものです。でも,それが本当に痛いのかは曖昧な場合があります。他人から見れば何ということがないことでも,本人にはとても気になってしまうことがあります。人の痛みには気を付けなければなりませんが,一方で感度を抑えることもした方がいいでしょう。

 ところで,汗の匂いがいつの間にか忌み嫌われるようになってしまいました。汗くさいのが,それほどの悪臭でしょうか? 子どもたちが「くさい」という言葉でクラスメートを忌避します。もしかしたらお父さんも臭いで遠ざけられているかもしれません。汗の臭いは働く者の勲章でした。働くのは汗することです。汗臭いという感性は,働くことの尊さを貶めていきます。臭いに対して,これはしてはいけない差別です。

 嗅覚は芳香を嗅ぐためばかりの感覚ではありません。腐敗したものを嗅ぎ分けることが第一の役割です。嫌な臭いから逃げていたら,嫌な臭いの識別ができなくなります。よい臭いにこだわるのではなく,わるい臭いにも慣れておく必要があるのです。家中を芳香で覆い隠していては,生きるものが放つ臭いを失います。

 味覚も片寄りを見せています。美味しいものに拘るあまり,美味しくないものを不味いと決めつけます。本当の不味さとは違います。健康食を求める基本は,美味しく食べることではありません。美味しく食べようと工夫をしますが,それは味覚を誤魔化すことにもなり,欲につられて過食になりがちです。豊かな暮らしが太りすぎを招くのは,美味しさの副作用なのです。食後のケーキ,それは美味しさのためであり,健康のためではありませんよね。

 感覚がプラスマイナスのバランスを維持していなければ,正常な機能を果たしているとは言えないのです。昔から酸いも甘いもかみ分けた人が粋な人だと言われてきました。今風に言えば,格好いい人です。格好いいといえば,見た目の格好だけを気にする傾向がありますが,五感のバランスを失っていると,人としての魅力が漂うことはないでしょう。家庭での暮らしを,親子いっしょでしっかりと感じてくださいね。

・・・快適さに浸っていると,感覚の過敏さに逸れていきます。・・・


 〇顔色?

 ママは化粧をしています。鏡の前で顔色を繕います。どこに出ても大丈夫と納得できたときに,やっと鏡の前を離れます。見られる自分を魅力的にしようという魂胆があるのでしょうか? 女性は同性に出会ったとき,どっちが勝っているかと瞬時に値踏みをするそうですが,本当ですか?

 子どもの顔色が見えていますか? 顔色がわるいときは,早く気付いてやってください。具合のよくないときは,顔色に現れます。顔色がいいときは安心ですね。でも,健康な普段の顔色をしっかり見慣れていないと,顔色の変化に気付くのが遅れますので,ご注意ください。蛍光灯の下ではなくて,自然な光の中での顔色を覚えておくことです。

 顔色を窺うということがあります。このときの顔色は色ではありませんね。笑っている顔か,怒っている顔か,しかめている顔か,泣きそうな顔か,いろんな表情の顔です。子どもはママの顔色を見ています。甘えていいか,逃げたがいいか,ママとの間の取り方を顔色から読みとっています。優しく「こっちにいらっしゃい」とママに呼ばれても,子どもはママのこわい表情を見て後ずさりします。だませません。

 自分の気持ちを自分の表情に出す一方で,相手の表情から相手の気持ちを感じ取ることができます。赤ちゃんは笑顔をすればママが喜んでくれるから,笑顔を覚えていきます。ママが笑顔のときは優しくしてくれるから,ママの笑顔を覚えていきます。ところが,ママがパパと笑顔で向きあっているときに,甘えていいときだと思ってそばに行くと,後でねと肩すかしをくいます。アレッと感じます。

 表情は相手によって変わります。子どもを叱っているママのこわい顔が,隣のおばちゃんと出会うとコロッと穏やかな顔になります。どちらが本当のママの表情なのか迷います。ママは嘘つき! そんな経験を重ねているうちに,向きあっているときに限って自分に対する表情を見せていると分かるようになります。

 子ども同士で遊んでいると,急に機嫌が変わります。さっきまでのご機嫌が嘘のように,いきなり険悪な雰囲気に変わります。人の気持ちはお互いのやりとりの結果としてコロコロと移っていくものだと悟ります。自分の気持ちは今泣いたカラスがもう笑うという変幻をしますが,相手もそうであると感じ取るには,対人経験というステップを越える必要があります。親子で一緒に,ごく自然に押しつけずに気長に,人とのおつきあいをしてください。

・・・顔色の微妙な変化を感じられないと,関係は拗れます。・・・


 〇トゲ?

 心穏やかでありたいですね。何か特別の出来事は別にして,普段を心穏やかに過ごすことはそれほど難しいことではありません。それは自然のままに感じていれば実現できます。そのためには,気持ちのトゲをまるく整えなければなりません。ピリピリと尖った感覚を突きだしているから,カンに障ることになるのです。

 尖った感覚とは? 早くしなければという焦り,ちゃんとしなければというこだわり,してくれてもいいのにという甘え,どうして私だけがという落ち込み,人の喜びへの妬み,人の豊かさへの嫉み,心ない仕打ちへの恨み,そんなトゲが伸びてはいませんか?

 トゲはどうすれば刈り込めるのでしょう? トゲが伸びるのは自分を守るためです。でも,トゲは周りのものを痛めます。ハリネズミのジレンマです。ハリネズミは自己防衛のハリがあるために,仲間と寄り添えないのです。自分を守ろうとするのではなく,一緒に生きようとすればいいのです。自分だけを守るのではなく,家族の支え愛(合い)を発揮してください。

 人には牙や爪といった攻撃の武器が備わっていません。まるで丸裸です。人は寄り添うことで生きているのです。気持ちの小さなトゲをせり出せば,それだけで支障が出ます。人はトゲのある人から遠ざかります。そっと離れていくだけならまだしも,対抗して要らぬつぶてを投げてくることもあります。

 なにも好き好んで尖っているのではない! 周りが自分を理解してくれないからという反論もあるはずです。よく分かります。でも,トゲで刺したからといって,状況が変わるものではありません。倍返しになるだけで,逆効果です。周りをありのままに素直に受け入れてしまえばいいのです。尖れば尖るほど損になります。

 自分が変えることができるのは,周りではなくて自分自身なのです。ものに動じない,何事も受け止める太っ腹な気持ち,そんな心境にはおいそれとは到達できませんが,そうなりたいと願うことによってトゲにヤスリをかけることができるはずです。トゲを摩耗するか尖らせるか,それを決めるのは余人ではなくて,自分なのです。子どもと一緒にトゲの抜きっこを始めませんか?

・・・自分の気持ちは自分でしか動かせません。・・・


 〇第六感?

 近頃はシックスセンスと言っているようですが,第六感という感性が存在しています。肉体的な感覚器はありません。昔から語り継がれている「虫の知らせ」は一つの例です。何となく感じるといった曖昧なものです。仕事の場で現れるベテランの勘も同じ類です。

 勘の鋭い人がいます。無理に説明しようとするなら,細かな情報を集めて体験という思考ネットワークに入力してかなりの確度を持った結果を導き出せる能力のある人です。どうしてそんなことが分かるのか,本人にも説明できないでしょう。それは無意識のうちに言葉で表現できる情報を量的に処理する思考能力を備えているからです。

 量的に処理という意味が分かりにくいですね。例え話をしておきましょう。「愛してる?」,「愛してるよ」,「どれくらい?」と言葉が続きます。どれくらいの愛か? 愛の量を問いかけています。でも,普通は愛を量として表すことはできません。そこで,「死ぬほど」といった他の価値との対比で表そうとします。「仕事と私とどっちが大事なの?」という判定も比較法です。

 第六感を支えている思考ネットワークでは,さまざまな情報の価値を逐一比較し優先順位を判定して,結論を導き出していきます。何事かが起こった場合に,後になって「そう言えばあのとき,こんなことがあった」という事実が思い返されるでしょう。情報の価値を正当に評価していなかったのです。この正当にという部分が量的に処理することに当たります。大事さを見落としたということです。

 物事の本質を見抜くという思考形態も,プロセスとしては同じです。同じ情報を持っていながら,結論が違うことはよくあります。どれが大切かという重み量の計算が人によって違うからです。意見の違いという場面では主観的価値観の違いとして済ませられますが,事実の判断では客観的価値が効くので,結果の白黒は明白になります。

 第六感とは,一見混沌とした状況,何も決めてのない曖昧な中で,これだと選び取る能力です。最も身につけておきたいものは,危険を察知する勘です。ミシッという微かな音を察知して,瞬時に危ないと判断できるようになるには,それができる思考ネットワークを体験という作業によって組み上げておく必要があります。それは場数を踏まないと備わりません。

 教えられた知識は身につきませんが,それは教えるという行為が思考ネットワークを作る作業ではないからです。体験という学びは神経のリンクを可能にする力があることを忘れないでください。

・・・広範な体験という訓練を経て第六感に磨きがかかります。・・・



《一緒に感じるとは,人としての自分を発見することです。》

 ○絵を見て何を感じるか,本を読んで何を感じるか,映画を見て何を感じるか,話を聞いて何を感じるか,ごちそうを食べて何を感じるか,音楽を聴いて何を感じるか,風や土に触れて何を感じるか,それらのすべてが今の自分の姿です。何も感じないというのは,自分の中に共感する部分がないということを表しています。

 人の優しさを感じるとき,自分の中の優しさが反応しています。一緒に感じるというのは共感することであり,共に同じ感性を持ち合わせているという確認になります。ママの素敵な感性を,パパの逞しい感性を,祖父母の円熟した感性を,お子さんに十分に染みこませてやってください。


 【質問10-09:お子さんと一緒に感じてみませんか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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