*** 子育ち12章 ***
 

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「第 10-10 章」


『もう少し 待ってみるかと 親心』


 ■はじめに

 待てば海路の日和あり。そんな悠長な時代は過ぎていき,時代の変化が速くなったことは,そこに住む人間がすぐに古びてしまうということです。子どもたちの早熟さは,視点を変えればそれだけ年を取ったことになります。そんなに急いでどこに行こうというのでしょう。

 身体は正直で,成人病の低年齢化,犯罪の低年齢化に見られる欲望の未成熟さが現れています。早かろう拙かろうという不備が蔓延しています。ブランドのコピー商品の広がりも,今すぐ欲しいという拙速でしょう。お金さえあれば何でもできるという魔法の絨毯を手に入れて,本物を見分ける素養をはじめとしていろんな手筈を跳び抜かしています。

 トラブルの中には,用心を怠ったという要因がかなり含まれています。交通事故もちょっとした安全確認をすれば防げたものがあります。それをしないのは先を急いでいるからです。手間暇を惜しんで無防備であるということは,不用心であり,災いを招くような状況になります。何も事故だけではなく,人間関係のトラブルも不用意な言葉や振る舞いで拗れることがあります。

 子どもが言うことを聞かないから折檻する,食事を与えない,閉じこめる,そんな短絡さも散見されます。手が掛かる子どもなど要らない,産まない,そんなお手軽指向も感じられます。子育てを母親任せにして逃げている父親の身勝手さも,面倒なことを避ける浅知恵です。もちろん,そんな例はほんのわずかでしょう。マスコミで取りざたされるのは,珍しい事例だからです。みんながみんなそうしているはずはないと信じます。

 子どもはバタバタと効率的に組み立てることのできるマシーンではありません。余計な動きを抑制してただ太らせるだけを命題とした畜産でのブロイラー育成法は,子どもには適用できません。不謹慎ですが,人並みの能力を備えたロボットを作るためには莫大な費用がかかるでしょうし,技術的にも不可能です。何しろ,全知全能の神の手によって作られたのですから。

 子どもを育てるのは,とてつもなく光栄なことだとも考えられます。神の手をなぞることができるからです。神は一瞬の作業だったでしょうが,人は20年の歳月が養育作業に必要なのです。待てば海路の日和があるはずです。



【質問10-10:お子さんと一緒に待ってみませんか?】

 《「一緒に待つ」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇一発指導?

 お巡りさんに捕まるから,悪いことをしちゃいけません。おじさんがこわい顔をしているから,静かにしなさい。どうして子どものしつけをこのように脅かすやり方でしてしまうのでしょう。怖い人はよその人,そうすることで脅しが強くなる効果がある一方で,逆に家族の結束が強まります。誰でも嫌なことは言いたくないですし,いい子ぶりたいですからね。

 ところで,しつけを人のせいにするやり方は,望ましいものではないと言われます。卑怯だという判断もできるでしょう。正しいしつけではないことも確かです。でも,それは子育ての現場から離れた第三者の後知恵です。他人は親に完全なしつけを求めて,その養育力を過小評価するので,責めるような非難を浴びせます。大事なことは,たとえやり方が不十分でも,悪いことをしなければいいのです。

 ちょっと脇道に逸れますが,勉強に対して一回の試験で100点取れるはずだと思っていませんか? 最初は40点,2回目は70点,3回目は80点,4回目は85点,5回目は88点とだんだんに点数は上っていきます。さらに,100点に近づくと点数の増え方は小さくなります。しつけも同じステップで進むと考えることができます。

 しつけがひとっ飛びでできると思うのは間違いです。40点のしつけでも,取りあえず悪いことが止められます。それを100点のしつけではないから意味がないと断定するのは無謀です。子どもの成長につれて,後から納得していけば十分です。大人でさえ,悪いことをしたら捕まるという歯止めが皆無ではありません。しつけは人の力を借りながら始めても構わないのです。

 100点満点のしつけとは,それが身につくということです。他者からの強要ではなくて,もう一人の自分がしてはいけないことを弁えて自分にさせないようにできるようになればいいのです。この最終段階まで一足飛びに到達することは無理でしょう。悪いことはしないともう一人の自分が8割方決めて,さらに捕まってしまうからという2割の歯止めもあって,誠実に暮らしています。

・・・しつけの段取りを考えて,仕上げを待ってみませんか?・・・


 〇読書?

 本を読む楽しみってどんなものでしょう? 次はどうなるかなという楽しみでしょうか? 読み終わった後,いろんな形での感動が通り過ぎていきます。感情が揺り動かされるためには,作品が備えている起承転結というゆったりとしたうねりとの共鳴が欠かせません。

 本を読まなくなった若者は,文章を読み解く力が弱くなっているために真ん中の承転が面倒と感じられ,起結だけで楽しもうとしています。結論だけを求めたがります。これでは気持ちの上っ面がざわめくだけです。心の奥底から揺さぶられるような感動はありません。

 本を読むことの意味は,心を耕すことです。自分の心の奥底に潜むいろんな欲望を掘り起こして,自分の本性に目覚める営みです。普段自覚していない欲望が,物語の承転に描かれている主人公と「そうだ,そうよ」と共感することによって,意識のレベルにまで引き出されてきます。人間にはそんなところがある,その気付きが読書感想の核になります。

 それが何の役に立つ? 欲望を抱えている自分が特殊な存在ではなくて,人は誰しも同じなんだという安心を得ることができます。もう一人の自分が自分を真っ直ぐに見つめることができるようになります。自分から目を逸らしていたら,それは自己放棄になります。

 本の世界にじっくりと浸ってみる,それは心の深いところまで旅をする遠い行程に他なりません。たとえば,桃太郎という名前一つにも,桃のイメージが心の機微に触れるという作用をしているのです。桃の形,それは出産のシンボルとしての女体への憧れであり,桃源郷という理想郷にもつながっているのです。ミカン太郎やリンゴ太郎では意味がないのです。

 イメージの素材が貧困な幼児期には絵本やマンガも必要です。でも,いつまでもその分かりやすいイメージの段階に留まっていては成長が止まります。それは人から与えられ,見せられるものであり,自分のものではないからです。言葉だけの世界に入って始めて,自らの心にある素材を引き出すことができて,自分らしいイメージを作ることができるようになります。

 読書の楽しみは自分の心が見えてくる喜びなのです。だからこそ,同じ本を数年置いてもう一度読み返すと,違った感動が味わえるのです。書いてあることは同じでも,それによって引き出される自分の素材が前よりも豊かになっているからです。経験を重ねて成長しているということです。

・・・読書は自分の心があぶり出されるのを待つ楽しみです。・・・


 〇我慢?

 都会での長い信号,田舎での車のいない横断歩道の赤信号,信号待ちでイライラしませんか? 黄色信号でも突っ込んでいくのは,待つのが嫌という気持ちのせいです。待つということは,負の感情を呼び起こすもののようです。それは欲望充足の中断になるからです。

 我慢できない子どもが育ってきたのは,待つということをきちんとしつけてこなかったからです。イヌのしつけでは,まず「待て」,「お預け」がちゃんとできることですよね。イヌと一緒にしては不謹慎ですが,我慢をしつけるのは待つことだということは同じです。

 いつも留守番している子どもは,家にあるおやつを食べたいときに口にしています。「お預け」がしつけられていません。おやつは三時,その約束が守れるようになれば,我慢の第一歩が踏み出せます。欲しいおもちゃも誕生日まで待てる,好きなハンバーグの夕食も土曜日まで待てる,待つことに慣れていくことが我慢のしつけです。

 もちろん,待っていれば実現するということが大事です。そのことで,待てばいいことがやってくるという楽しみが生まれます。待つのは嫌だけど,その先に楽しみが待っていると思えたら,待つのが苦にならなくなります。楽しみを焦らせた方が喜びが大きくなるということは,パパとママの間でも立証済みのはずですよね?

 ところで,忙しいママは子どもに「後で」と言っています。子どもにはその「後で」がいつなのか分かりません。ほとんどの場合が,無期限なのです。待つという行為には期限が必要です。そうでないと,いつまで待たせるんだとイライラするものです。食堂や待合室で経験するイライラは先が見えないイライラであることを思い出してください。子どもには,きちんといつまでという目安を与えてやってください。

 ママの帰りを待っている子どもがいます。子どもは何時までと思って一生懸命に我慢しています。時間が過ぎてもママが帰ってこないとなると,子どもの気持ちは我慢モードから不安モードに切り替わります。次からは,素直に我慢モードに入れなくなり,時間前でも不安モードに嵌ります。遅くなるなら連絡を,お願いしておきます。

・・・先の楽しみが見えているときだけ,待つという我慢ができます。・・・


 〇待機?

 講演に出かけて控え室で待っているとき,予定の時間が来てサッと講師席への案内がされることはほとんどありません。「集まりが悪いので,もう少しお待ちください」という断りがあります。皆が早く見たいというタレントであれば開演前から満員なのでしょうが,無名の人ですから諦めています。

 最近テレビで片づけられないお宅が登場する番組を見ることがあります。食べっ放し,脱ぎっ放し,使いっ放し,出しっ放しの連鎖反応です。片づけることができないのはどうしてでしょうか? それが分からないと,子どもに片づけるしつけをする理由も分かりません。

 授業の始まりの合図があってから,子どもたちは教材を机上に出し始めます。開始の合図を休み時間の終わりの合図と勘違いしています。大人にも学校や地域での集会などで,何時からという予定時間が来てから出かけようとする方がおられます。はじめの時間はいい加減ですが,何時までという終わりの時間が少しでも延びると,途端に不機嫌になられます。

 開始時間とは,読んで字の通りに始まりの時間です。ということは,事前に準備万端整えて,開始時間を待っていなければ実現しません。本当は学校でのチャイムは,休み時間終わりと授業始まりの合図に分けておかなければなりません。一緒にしているから,開始時間が見えなくなっています。

 前向きに生きる姿勢は,準備万端整えて待つというものです。用意しているという態勢を取ることです。脱いだ靴を出船の形に揃えること,講演を聴くために着席して講師の出番を待つこと,先生の授業を待ち構えること,出したものは次の出番に向けて整理しておくこと,いろんな場面で待機するようにすればいいのです。待つということの積極的な意味は将来への確かな備えです。

 待機するとは機を待つことであり,機会を掴まえる意気込みを示すことです。機が熟すのを待つということもあります。いろんな局面で相手の出方を待つ場合もあります。用意ができていれば,さあ来いという気持ちがわき起こるでしょう。そうであってこそ,道は拓けていきます。

・・・片づけることの意味は,機を待ち受ける準備です。・・・


 〇ジーッと?

 人を待たせる方ですか,それとも待つ方ですか? 誰かの帰りを待つだけというのはつらいことですね。でも,待ってくれている人がいないというのも寂しいものです。忙しい時代では待つのは時間のロスに思われます。ボーッと無為に過ごす,そう考えるだけで焦りさえ感じてしまいます。

 ところで,落ち着きのない子どもがいます。ジーッとおとなしく待てない子どもがいます。子どもは感じるままに動くものです。きょろきょろ見回しあれこれを見聞きするものに素直に反応しています。それが自然です。でも,いつまでもそのままでは困りますね。どうしてでしょう? 社会性の面で行儀が悪いということがありますが,それだけではありません。

 桜の花の芽は温かくなったら吹き出してきます。では,桜はいつが温かいと分かるのでしょう。桜は温度をジーッと感じています。寒い季節を耐えているところに春風が訪れてきたとき,温かくなったと分かります。ただ待っているのではなく,感じたことを記憶し比較検証しながら,ジーッと機を窺っているのです。決してボーッとしているのではありません。

 ジーッとしていると,外界の変化が感じられます。ジーッと雲を見つめていると,雲の流れや変化といった動きを見届けることができますね。川原でぼんやり座っていると,風の息づかいに気が付きます。自分が動いているときには止まって見えたものが,自分が止まっているときには動いて見えるようになります。観察する目が開かれるのです。

 ママの膝に抱かれておとなしくしている子どもは,ママとお話ししている相手の方の口の動きをジーッと見ています。口って不思議だな? ママは何を話しているんだろう? ご本を読んでくれるママの声に,ジーッと耳だけを傾けています。頭の中は忙しく回っています。

 問題を前にしている子どもは,ジーッと考えています。それまでに記憶していた知識の泉を紐解き,比較検証をしています。似たような問題を思いだし,それに導かれて小さな一歩を踏み出します。考える人は手で頭を支えてジーッとしているポーズが相応しいですね。頭の中に知恵が湧いてくるのを待っているのです。

・・・ジーッとしているときに考えるスイッチが入ります。・・・


 〇待つ教育?

 子どもを急かせていませんか? 教育は教え育てることですが,子どもにあれこれ教えようとする傾向が強まっています。教えようとする者が抱く思いは教えたとおりにできるようになったかということです。教えたいことがいっぱいあります。一つが終わればすぐ次にと進みたくなります。ついつい親心のつもりで畳みかけてしまいます。

 教育は大人の側が使う言葉です。子どもの側では学習ですね。学習にはそれなりのペースがあります。教育のペースとは違うのです。言い換えれば,大人のペースと子どものペースは違うのです。それを意識すれば,教育に待つことを組み込んで学習にマッチングをさせることの重要さが理解できるはずです。まず,大人が待つことを実行しなければならないのです。

 どういうことでしょうか? 教えることができるのはお手本です。字を教えます。子どもはママが書いた字をなぞってマネをします。ママが代わって書いてやることはできません。何度も何度も書いて忘れて思い出して,じっくりと子どもに染みこんでいきます。その間,待たなければなりません。繰り返すという学習の手続きは,教育においては仕上がりを待つことです。

 教育では課題を与える場合もあります。その時,解答までの道筋の取り方が大切です。一直線に解答に辿り着くように教えてやりたくなります。見ているとモタモタしてじれったくなるからです。それは教える人が既に解答を知っているから,最短の道筋が見えてしまうからです。

 学習では,子どもは解答を知りません。ああしようかな,こっちがいいかな,と手探り状態です。そこで,参考になるヒントが与えられます。そうか,と迷いが解けます。進む方向は分かっても,まだ解答は見えません。少しずつ手順を追って考察の階段を上っていきます。やがて,課題の解けるときがやってきます。「できた」という達成感が得られます。

 乗り物で運ばれて山頂に連れて行かれても,山登りの楽しみは味わうことはできません。登ったということではないからです。自分の力であれこれ迷いながら登る体験が学習です。その学びは,山が代わっても確実に登山できる力になります。連れて行かれた経験では,別の山には全く役に立ちません。待つ教育によって,学んだことが広い応用のできる力に変わっていくのです。

・・・教えた後で待ってやると,子どもの学びがついていきます。・・・



《一緒に待つとは,子どもに育ちの時間を与えることです。》

 ○手をつないで歩いているとき,歩幅が違うのでママはゆっくりと足を運んでいますね。それが待つということです。起きてきてからさっさとしない子どもを見守っているのはイライラしますね。口出ししないで任せてみるのも,待つことです。大人のペースに引き込もうとしないだけで,十分に待つことになります。

 子どもの育ちが見えなくなったら,一年前の我が子を思い出してください。こんなに成長したんだと,その育ちの早さが実感できるはずです。親が待っている甲斐は,すぐに現れます。待っている間も子どもは育っているのです。決して無為な時間ではありません。


 【質問10-10:お子さんと一緒に待ってみませんか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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