*** 子育ち12章 ***
 

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「第 10-11 章」


『先を行く ママの歩みに 追いすがる』


 ■はじめに

 這えば立て,立てば歩めの,親心。過ぎ去れば,子どもの成長は節目として思い出すことができます。でも,子育て真っ最中では,成長はなかなか見えないものです。親とは欲張りなもので,出来の悪い子を持った不幸と嘆きながら,バカな子ほどかわいいと,わけが分かりません。

 実は,この相反する子ども観は時期が違っています。嘆くのは子育て真っ最中,かわいいとは子育てが終わって振り返っているときです。悪戦苦闘が過ぎた後は,かえって気持ちの充実感を味わうようにできているのが親業です。終わりよければ全てよしということですが・・・。

 親がいくら嘆いても,それで子どもの育ちが促されるなら意味もあります。でも,結局は子どもとはかわいいものと思った方がいいという結論を導き出しているのは,嘆いたところで大した効果はないと分かったからです。子どもの育ちは子どものもの,親はハラハラジリジリすることなく黙って見ているしかありません。

 親は子どもの傍を一緒に歩んでいきます。大人は歩くペースが早いですから,どうしてもジリジリします。あくまでも自分のペースを守ろうとすると,イライラは子どもに向かいます。どうしてそんなに鈍いのか,というわけです。自分の方がペースを落とせばイライラしなくなることに気付いたとき,親になることができます。

 二人目の子どもを育てるときは,ほとんどの親が子どものペースに合わせることを学習しています。だから,ゆったりと育ちを見守れます。二番目の子どもがノビノビ育つのは,親として上級生になっているからです。

 この経験から出てくる子育ての知恵は,子どもの育ちの全期間が見えると,気持ちに余裕が生まれるということです。始めての道を往くときにはまだかまだかと思いますが,帰り道はゆったりとした気持ちになります。目標が見えているとペースを守れますが,目標が見えないと焦りが出てくるものです。子育てにおける目標は,近くにいる大きな子どもたちです。あの子まで育つんだと見ておいてください。



【質問10-11:お子さんと一緒に歩いてみませんか?】

 《「一緒に歩く」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇転ぶ?

 お子さんが生まれて始めて立ち上がったとき,どんなにうれしかったでしょう。ほんの一瞬ですが,倒れそうになって最初の一歩を踏み出します。ぎごちない立ち姿を笑ったりはしませんでしたね。一歩が二歩に歩みの数が増えていきますが,今にも転びそうでハラハラさせられて見ていられません。

 テーブルや壁につかまって伝い歩きをします。不安定ですから,転ばないようについ子どもの身体を支えてやりたくなります。その気持ちは十分に分かりますが,ちょっと待ってください。子どもは自分の力で歩こうとしています。もしも親が支えてやったら,子どもはその支えを頼りにした力の配分を覚えていきます。親の支えなしで歩けるようになって欲しいですよね。

 親はなぜ子どもを支えるのでしょう? 転ばないためですね。でも,転ばないように支えると自分で歩く練習にはなりません。歩く練習は転ばなければできないのです。転びそうになる身体をどうすれば踏ん張れるかを練習しています。転ぶから転ばない練習になります。絶対転ばないという条件のもとでは,歩く練習にはなりません。

 親が心配することは,転ぶことの先にある怪我です。転んだら危ないということです。親の保護責任は子どもを転ばせないことではなくて,転んでも怪我をしないようにすることです。転んでもいい,でも怪我をしないようにモノの角の方に親の手でクッションを作っておくのです。子どもを直接支えるのは保護ではありません。保護とは環境に潜む危険を取り除いてやることです。

 たくさん転びます。やがて転ばなくなります。それが子どもの育ちです。できないことをできるようになるためには,できない目に遭わなければなりません。どうすればできるようになるか,それはあれこれやってできる方法を探し出すしかありません。

 子どもを支えるのが過保護です。過保護にしたら育ちの邪魔になることを分かっていただけましたか。保護とは子どもに転ぶチャンスを与えた上で,危険に対する予防措置を施すことです。できないとつい手を出したくなる,それが保護だと勘違いしないでください。

・・・転ぶから転ばないようにしようとして歩くことを覚えます。・・・


 〇心配?

 子どもは高い高いと持ち上げられるのが好きです。キャッキャと喜ぶから,パパは肩車をしてやったり,空に向けて子どもを持ち上げます。喜ぶことをしてやりたい,それが自然な親心です。ママはハラハラしますが,子どもは全然怖がらないですね。幼い子どもは怖いということを知らないからです。

 道を歩いていても,わざと縁石の上を歩こうとします。小高いところがあればすぐに登ります。わざわざ危ないところを選んでいるようで,ママはわざと心配させていると思うかもしれません。でも,子どもは自分の力を試したくて仕方がないのです。ママも覚えがあるはずです。何か一つ料理のコツを覚えたら,やたらとあれこれ試したくなるでしょう。

 自分を試したい,それが意欲の源です。できる自分を喜びたいのです。それを機能快と呼びます。能力を使えることが面白くてしようがない,育つ力とは快感でなければ長続きしません。まず,そのことを十分に受け止めてやることが親の務めです。

 それでも,やりすぎると危ないのは経験から明らかです。このことは大人には明らかですが,子どもにはまだ分かりません。経験からやりすぎると危ないことを学ばなければなりません。子どもは育ちの中で,やりすぎて痛い目に遭うことを体験します。転けてすりむいたり,青あざを作ったり,心配ばかりかけます。

 お袋には心配ばかりかけたな。誰でもそうして育ってきました。ママが子どもの心配をするとき,ママは自分の親にかけた心配を取り戻しているのです。どうして私だけが・・・。それは違います。心配してくれる親がいる,だから子どもは真っ直ぐに育とうとします。ママがそうであったはずです。

 心配のあまり子どもに自分のイライラをぶつけてばかりいると,子どもはママが自分のペースに無理矢理合わさせようとしている,心配なんかしてくれない自分勝手なママだと受け取ります。親は心配なんかしていないと言うような子どもに育ちます。心配を心配に留めておくことができるかどうかは,子どもの育ちを信じようとしているかどうかです。

・・・信じているけど心配になるか,心配だけど信じているか?・・・


 〇歩く効用?

 子どもが歩くことを厭うようになっています。大人も普段乗り物を利用していて,健康のためにわざわざ時間を使ってジョギングをするという無駄なことをしています。職住分離の世の中ですから,毎日出かけています。例えば,乗り物を一区間短縮してその間を歩けば趣味と実益が一致します。ちょっとだけ早起きすれば事足ります。

 子どもは毎日雨降りでも学校まで歩いていきます。参観日など,親は車で学校に向かいます。情けないことです。校区内に親と一緒に出かけるときも,ママが車を持っていると,車でなければ嫌と言う始末です。でも,ほとんどはママの方がそう思っています。

 歩くことは健康にいいことですね。だったら,健康な生活を子どもに与えるためには,なるべく歩くようにすることです。食事の健康にいくら気配りをしてやっても,その食事の使われ方に心配りしなければ詰めを欠きます。歩くことは誰でも簡単にできることです。

 歩くことを苦にしているから出会いがありません。触れ合いがありません。肩が触れたらにらみます。行き交う人を邪魔だと感じます。歩いていると,車に乗っている人は閉じこもっている人です。車と人では加害者被害者の関係しかないので,お互いを避けようとします。都会では,歩くことに用心をしなければなりません。

 歩くことが面白くなれば,歩くことが苦にならなくなります。歩いていると道すがらの場所に居合わせることができます。道の右側を歩くか左側を歩くかで,風景が異なります。風を感じます。臭いがあります。光と影もあります。店があり,樹があり,水たまりがあり,よその人の暮らしや仕事が目に飛び込んできます。

 お子さんと一緒に歩きながら,きょろきょろしてください。見ていながら後で思い出せないことがあるのは,観ていないからです。見えるものを言葉で表現し,その意味を話してやってください。草花が咲いていると,季節が分かります。自転車が飛び出してくると,角は危ないことが分かります。太陽の光の温かさが分かります。歩くときは身一つで開けっぴろげになり,周りと直接に触れあえます。いろんな意味で自分を知るチャンスなのです。

・・・人は歩くことで知恵が身についた遠い生い立ちを持っています。・・・


 〇歩く姿?

 中高生の歩く姿がしゃきっとしていません。服装は好みですからどうでもいいことですが,颯爽と歩いて欲しいものです。若すぎるくらいに若いのに,疲れた歩きを見せて,魂を抜かれたような哀れなさまです。背筋を伸ばしてしゃんとした立ち姿が美しさの柱であると思わなくなったのでしょうか?

 ツンとお澄ましな風情はブリッコと嫌われていたようですが,だからといって腰をかがめた卑屈さが価値あることでもありません。歩く姿をきちんとしようとすると,自然に背筋が伸びて姿勢が真っ直ぐになります。どうでもいいという歩きをするから,土台が揺れて全体が崩れていきます。

 靴の踵を踏みつけて歩く生徒がいますが,足元の動きが不安定になり,しなだれかかるような歩みになります。地面をしっかりと蹴ることができないからです。モデルの美しさは,その歩き方からはじまっています。美しさには立ち居振る舞いの型があるのです。モデルではないから関係ない,どんな歩きをしても迷惑をかけているわけではないから構わないで,というのが今風ですか?

 オシャレを問題にしているのではありません。歩く際の緊張感です。歩く姿勢を長時間きちんと保つことに慣れておかないと,じっと座っていられなくなります。子どもが授業中おとなしく座っていられないと,勉強が滞るようになります。ちゃんとした姿勢が当たり前になっていれば,座っていることは苦になりません。

 授業時間と同じ45分間を颯爽と歩き続けることができれば,おとなしく座っていることは何でもありません。10分ほど歩いただけで疲れるようでは,45分間の授業は苦行になります。おとなしく座っていられないのは,歩く際の姿勢を保つ筋力が鍛えられていないからです。歩くとは足だけの運動ではないのです。

 日本の踊りは手の踊りであり,西洋の踊りは足の踊りです。盆踊りとバレーやフラメンコとの違いです。日本人は足の使い方が上手ではありません。そこで,歩き方が洗練されずに,日本人が卑屈な印象を持たれていました。西洋式の生活になっても,まだまだのようです。歩き方への関心が必要です。

・・・出歩くと疲れるようでは,美の修行が足りません。・・・


 〇走る?

 走ると危ないよ。どうして危ないのでしょう。車は急に止まれない。だから,危ないのですね。もちろんつまずくこともあるでしょうが,止まらないことの方が大きな危険因子です。廊下を走ってはいけないという注意も,止まらないことから生じる衝突を回避するためです。

 車の運転では,曲がり角や交差点では一旦停止か徐行しなければなりません。徐行は歩くことに対応します。歩くのは安全なのです。朝出がけに「行ってきます」,「いってらっしゃい,気を付けてね」と声を交わします。何に気を付けるのでしょう? 歩いていくことは安全なのに。

 スピードの時代には,歩く速さ以上のものがあちこちで動きまわっています。自転車や車などは言うに及ばず,走る人もぶつかられると危害を受けます。全てが歩くスピードで動いていれば衝突による事故はほとんどないことでしょう。危険は向こうからやってくるから,気を付けなければなりません。

 走ることは凶器になります。自分はただ走っているだけで,危害を加えようという積もりは全くないといっても,事故は起こり得ます。人は被害を受ける弱い身であるということと,走るだけで加害を与える強い身であることを弁えなければなりません。

 待ちわびたパパが帰ってくると,お子さんが「パパ〜,お帰りなさい」と思いっきり走り込んでいきます。がっしり受け止めてくれると思っているから,遠慮がありません。同じ調子で友だちにぶつかっていったら,たまりませんね。自分の力を測れないと,事故になります。相手に合わせた力加減をすることが必要です。

 自分の安全性には敏感なのに,自分の危険性には無頓着な若者が増えてきました。身の安全を守るためにナイフを携行してしまう怖さがあります。一緒に歩いていて,何が怖いのかを親子でしっかり見極めてください。それがリスク管理の発端です。

・・・歩くのと走るのでは立場の逆転が起こります。・・・


 〇一歩?

 千里の道も一歩からです。千里といってもピンと来ませんね。1里は3.9kmですから,千里は3900kmです。日本列島をぐるっと一回りぐらいでしょうか。歩幅50センチでほぼ800万歩です。どんなに遠くても一歩一歩の積み重ねで到達できますが,それにしても遠いですね。

 そこまで勘定しなくても,人の歩きは結構な距離を移動可能にするものです。山登りをした方なら実感しているでしょうが,遥か向こうにそびえ立つ山頂まで,歩いていくことができます。山頂に立つと,よくもここまで歩いてきたものと,我ながら感心します。

 普段乗り物で行き来をしているところまで,例えばストなどで歩かざるを得ない場合があります。実際に歩いてみると,思ったよりあっけなく届いてしまいます。年寄りが昔は歩いていたと語る距離は今考えると結構な距離です。歩く力を見くびることはできません。

 ただひたすら歩いていけば,遠いと思えるところまで辿り着くことができるという経験は,継続は力という言葉を実感として身体に教え込みます。歩くことだけではなく,できそうもないと思うことでもこつこつと続けていればやり遂げることが可能だと,自分の力を信じるようになります。

 いまどきの子どもは根気がないと言われますが,それは根気の成果を身をもって体験したことがないからです。自分の力を信じる体験として,長い距離を歩き通した実績は大きな意味を持っています。一歩一歩の積み重ねをすれば必ず辿り着ける,それが信じられたら根気は出てくるはずです。

 ちょっと歩いただけでもう駄目だと止めてしまう,自分の足を信じられなくて,どうして自分の力を信じられるでしょう。信じるためには,具体的な対象が必要です。頭の出来などという曖昧なものではなくて,手の力,足の力を信じることから始めるべきです。それは決してそのときどきで変動することはないからです。

・・・ずいぶん遠くまで歩いたねと振り返ってみてください。・・・



《一緒に歩くとは,子育てのあれこれが詰まった宝庫です。》

 ○口で説明する知識はすぐに忘れます。一緒に行動しながら意味を伝えれば,後で同じ行動をしたときに思い出すことができます。学びは手で覚えるのが一番ですが,知恵には足で覚えるものもたくさんあるのです。

 意味のある行動をできるようになることが育ちです。いくら行動的でもそれが無意味であれば,行動ではありません。行動とは行く動きと書きます。行くとはどこかに向かって歩くことと重なります。どこに向かって動くのか,それが意味なのです。


 【質問10-11:お子さんと一緒に歩いてみませんか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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