*** 子育ち12章 ***
 

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「第 10-12 章」


『こわいけど ママと一緒に 跳んでみる』


 ■はじめに

 人は決断を迫られることがあります。ハムレットの生きるべきか死ぬべきかという深刻な決断もあります。するかしないかという迷いは日常茶飯事です。突然目に飛び込んできたショーウインドウに飾られている服飾を,一目見て気に入ったとしても,いざ買うかどうかとなると決断が必要です。

 清水の舞台から飛び降りる積もりで,という決断が下されます。家計や人情などの無理を承知で実行することになります。しがらみを吹っ切るという跳躍をしています。跳ぶというのは,不連続性という性質を備えています。流れを断つのですから,それなりの覚悟をしなければなりません。

 子どもが遊んでいるとき,小さな崖に出くわすことがあります。前に進もうとすると,飛び降りなければならない崖もあります。あるいは対岸に飛び移らなければならないかもしれません。跳べるかどうか自問自答して,跳べると決断すれば跳びますし,無理だと自重すれば引き返します。

 幼い子どもは自問自答をしないので,近くの背丈以上の段差には近寄らないように用心しておかなければなりません。無茶だという判断ができません。いろんな段差を跳ぶ経験をさせて,どれほどの衝撃を足に受けるか,身体に覚えさせておきましょう。口でどれほど注意をしていても,効き目はありません。成長に合わせた小さな体験は大事です。

 跳ぶ前に,跳んでも大丈夫かという判断をする癖は,多くの局面で役に立ちます。自分の行為が及ぼす結果や顛末を想像する能力を鍛えるからです。先のことを何も考えずにしでかすという愚挙は,用心することの大事さを跳ぶという身近な体験から学び取っていないからです。

 跳ぶという行為は自分の身体の動きです。しかしながら,跳ぶか跳ばないかはもう一人の自分が判断しています。もう一人の子どもが跳ぶことを例題にして,状況を見て判断するという訓練を受けているのです。教科書では学べない,生きる力の獲得です。



【質問10-12:お子さんと一緒に跳んでみませんか?】

 《「一緒に跳ぶ」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇1,2,3?

 スキップを踏むときは心が浮き立っているときですね。代わる代わる片足で踏む二拍子のステップです。心につられて身体が飛び跳ねています。何の屈託もなく遊んでいるときや,ママと一緒にお買い物に出かける途中に,ママの目の前でスキップを踏む姿を見せてくれます。

 片足で跳ぶことを繰り返すとき,身体は歩くよりも速く動かしています。身体に前向きの勢いがあるから,スキップが可能になります。歩きながらスキップしようとすると,かなり苦労します。高跳びの競技,跳び箱などでは助走をしますが,少し抑え気味の走りです。三段跳びの助走は遠くに跳ぶように助走も全力疾走になります。

 ところで,走りながらスキップしようとすると,足がもつれて転びそうになることがあります。タイミングを習得しなければなりませんね。跳ぶときにも踏み切りのタイミングが大切です。走るエネルギーを踏み切りの足にギューッと詰め込まなければならないからです。

 赤ちゃんが生まれるとき,ママの身体には陣痛がやってきます。今が生まれるときというタイミングです。暮らしの場でも,間が悪いということがあります。タイミングが合っていません。時期を待てということもあります。生きることは前向きに進むことですが,ときどき跳ばなければなりません。タイミングを読みとる能力が求められます。

 ママと一緒に跳ぶとき,1,2,3と声を上げて,タイミングを合わせますね。跳ぶタイミングをつくることができます。一人で跳ぶときも,もう一人の自分が1,2,3と自分に号令をかけますが,そのことを教えてやるために一緒に跳ぶのです。

 重いものを持ち上げたり動かそうとするときも,ヨイショとかけ声をかけます。そのタイミングに向けて,全身の力を凝集していきます。もちろん,気持ちをその一瞬に向けてグッと押し込んでいくのです。普段から,そのタイミングの取り方を身につけてやってください。

・・・跳ぶためにはタイミングを合わせる必要があります。・・・


 〇高み?

 子どもは高いところに登るのが好きです。お山の大将の気持ちは,山頂から風景を見下ろす快感です。広い視野を得ることで,世界が広がります。それは知らなかったものが見えることです。また,山頂から自分の家はどこかなと探そうとしますが,広い世界の中で自分のいる位置を見極めることです。

 人は鳥の目を持ちたくて飛びたいのですが,飛ぶ力はありません。子どもは飛ぶ夢を断ち切れずに,宙を飛ぶヒーローに憧れます。高いところから飛び下ります。でも,それは跳ぶことでしかありません。育ちとは向上することであるとすれば,高みに跳び上がることであり,何度も跳び上がり続けることになります。人は上昇志向を持って生き続けていく定めなのでしょう。

 何を具体的に高みと見るかで,育ちの意欲は様変わりをします。勉強の高み,スポーツの高み,お金がたくさんある高み,地位という高み,人気という高み,ブランド持ちの高み,人格の高み,人としての高み,美しさの高み,若さの高み・・・。それぞれに目の前にある高みに向けて跳び上がっていきます。山に登る理由はそこに山があるから,それでいいでしょう。

 ところで,親が跳び上がろうと選んだ高み,それを一緒に跳んでいる子どもは当たり前と思います。親とは違った高みを目指して欲しいと願っても,跳び方が違うので無理です。親が言うようには育たず,するように育つのです。親は子どもと一緒に跳んでいることを忘れてはいけません。

 成長してくると,子どもなりに自分が目指す高みを見つけます。たとえ遊びであっても,あれができるようになりたいという高みを持つことができれば,それに向かって跳べばいいのです。親は勉強の高みを目指して欲しいのかもしれませんが,山は決して一つではなく連なっています。何であれ向上していけば,次々と山を踏破していけます。

 遠くを見て歩いていけば躓きます。足下を見ていないと,小さな段差に足を取られます。遠くはときどき見て,足下にある段差を確実に跳び越えて,一歩一歩進んでいけばいいのです。一足飛びに飛ぶことはできません。

・・・手近にある小さな高みを跳び続ける方が堅実です。・・・


 〇横跳び?

 上に跳ぶだけではなく,横に跳ぶこともできます。危険を避けるために咄嗟に横っ飛びというケースもあります。身体を横にシフトすれば状況が一変するからです。道を歩いていると,人と行き交います。真っ直ぐに進もうとすると,ぶつかります。道を空けるために横に動かねばなりません。

 避けることを負けることと思うことがあります。どうして自分の方が避けなければならないのかと反発するのは,気持ちが収まらないからです。真っ直ぐに進むことがよいことであり,進路変更を押しつけられるのは自分をないがしろにされると感じるからです。プライドが関わってきます。

 昔は長幼の序という順序がありました。年長者を敬うという習わしがあり,年下のものが譲ることになっていました。今は人は皆平等なので,対等でなければなりません。年下であるから譲るという行動基準は成立しません。基本的に礼儀という概念がなくなっています。

 子どもがよそのおじさんと出会ったとき,どちらも譲ろうとはしません。自分が譲る理由はないのですから,お互いに相手が譲るべきだと思っています。結果はぶつかります。車に乗っていても,どちらも譲らないから困ったことになります。我を押し通そうとするのは,トゲを向け合うことになります。

 道を譲るのは,相手に従うことではありません。譲らないことによって相手に突き出されるトゲを,そらすことなのです。先の尖ったものを人に向けてはいけないということです。肩がぶつかると,お互いにキーッとにらみ合います。それはギラギラした気持ちの抜き身がチャリンとぶつかるからです。

 プライドは自分を大事にすることであり,人を襲うものではありません。気持ちのトゲを自覚して,人を傷つけないように向きを変えることが,自尊行為です。人に気遣いできなくては,自分を大事にできるはずもありません。ちょっと横にスライドする,それは人としてしなければならないことです。

・・・横に跳ぶことで,目前のトラブルを回避できます。・・・


 〇ステップ?

 子どもの育ちは階段を登るように進みます。能力はスモールステップを克服していくことで獲得されます。勇気を出して挑戦するためには,気持ちのジャンプが必要になります。跳ぼうとするときに「よし,いくぞ」という思い切りをすることと同じです。

 ところで,ただ気持ちで高い目標に跳び上がろうとしても,無駄な努力になります。少なくとも「できそうだ」という確信が必要です。それは目標の可能性を見極めることです。大事なことは,今の自分にとっての可能性です。ひっくり返せば,自分の実力をしっかり自覚することです。自分を知らなければ,可能性も何もありません。

 子どもは基本的に身の程知らずです。可能性よりも,したいというだけのことで無理・無茶をします。もう一人の自分が自分をきちっと認識できていません。育ちの中で,自分の今の力を失敗体験によって思い知っていきます。できない自分を認めることは嫌ですから,いろんな形で逆らいます。投げつけたり,毒づいてみたり,壊したり,人のせいにしたり,別のものがいいと駄々をこねたりです。

 失敗を諦めないためには,たとえ途中まででもできたところを認めることです。ここまではできた,それがスモールステップを見つけるコツです。完全ではなくてもできる部分がある,それを見つけられたら立派な自信になります。今は全部できなくていい,あとはもうちょっとできるようになろう,それが育ちのステップです。

 傍で見ているママは,子どものステップが小さいことを気に入らないかもしれません。歩いているときに遅れがちになる子どもにイライラします。子どもの歩幅は狭いので,走ってついてきているのを知っているはずです。ママの思うように育って欲しいと思えば,子どものステップに合いません。それは無理を強います。

 一緒に跳んでみてください。子どものステップで。子どもの歩幅を知ることです。どこまでできるかな,一緒に跳んでみようか。子どもが自分の力を知ると同時に,ママも子どもの力を知ることができます。励ましとは,それでいいんだよと認めてやることなのです。

・・・ちゃんと跳ぶには自分の力を知ることが必要です。・・・


 〇節目?

 もうすぐ一年生。今までの流れから一段上のクラスに進級します。それも気持ちの上で跳びになります。4月から中学生,大学生,社会人といった跳びもあります。大人になっても,パパは昇進という跳びがあります。もっとも最近はあまり昇進にこだわらない人が多いようですが。

 新入生は頼りなげです。でも,しばらくするとらしくなってくるものです。弟が誕生すると,お兄ちゃんやお姉ちゃんらしくなります。社会人一年生も,ちゃんといっぱしの社会人に見えてくるから不思議です。実力はゆっくりと備わっていきますが,気持ちの跳びをしています。

 卒業と入学,子どもにとっては節目ですが,それは社会的に認知された成長の跳びです。成人式の前と後で,何も変わってはいないでしょう。それでも,大人になったという気持ちの跳びをしています。跳び幅がどれほどかは,個人差がありますが,誰もが経験する跳びです。

 進級も小さな跳びです。クラス替えも跳びです。もちろん,転校することも大きめの跳びになります。転校では,一方で友だちとのつながりが断たれるという悲しい跳びがあり,他方で新しいつながりができるという楽しみがあります。新しい人たちに出会うことが不安であれば,転校の跳びは嫌なものになります。跳びには不安がつきまとうものですが,跳ぶことで何かが変わるという期待を持つことができたら,きっと跳びたくなるでしょう。

 新しい場に跳び込む楽しさ,それを日常のあれやこれやで一緒に体験しておいてください。跳ぶことが楽しい,新しい環境を苦にせずに,そこに期待の種を見つける癖をつけてやってください。仕方なしに追い込まれて跳ばされるのではなく,自分の気持ちで跳ぼうとすることが大切です。

 予定されている節目,例えば入学。その前にママは焦りませんか? あれをしなければこれをしなければ,子どもにいろんなものを背負わせようとしませんか? たくさん背負ったら重くて,跳べなくなります。まず跳ぶことによっていいことがあるよ,そこではいろんな楽しいことが待っているよ,そう思わせることが跳ぶための気持ちの助走に対する励ましです。跳んだ後で,一つ一つ拾っていけばいいのです。

・・・節目という跳びは楽しくなければつまずきます。・・・


 〇壁?

 技を覚えようとするとき,初心者ははじめてまもなくすると何とか形になります。手前味噌ながら,結構やれるじゃないかという気になるものです。先輩も大したことはない,すぐに追いつけると思います。はじめての遊びでも,年長者のマネをするうちに,アッと言う間に飲み込んでしまいます。

 ビギナーズラックというまぐれ当たりが起こります。それを実力や特別な才能があると錯覚します。いい気になってのめり込んでいると,伸びがパタッと止まります。いくらやってもうまくいかない状況に陥ります。そこそこまではスッと習熟しますが,ある程度のところで壁にぶつかります。たいていは,その壁に阻まれて挫折することになります。自分には才能がないと落ち込んでいきます。

 長い目で見ると,幼児期までの育ちは目を見張るものがありますが,児童期にはいると育ちはグーンとスローダウンしてきます。子どものときは神童で,大人になったらただの人などといわれますが,それは育ちが直線的ではなくてS字型になっているから起こる小さなイタズラです。そして,日々の小さな育ちも,同じように真っ直ぐではありません。

 育ちの壁とは壁に見えるだけで,実はジャンプのエネルギーを蓄える平らな助走区間です。壁に向かって真っ直ぐに走っていけばいいのです。決して壁にぶつかることはありません。見えない壁の前で立ちすくんでしまうか,壁を追いかけていくか,それが次へのジャンプの成否に関わります。壁が見えたからといって,いきなり飛び越えようなどと焦らないことです。

 親の目には子どもが立ち止まっているように見えて,愛のムチを当てたくなります。できないという壁に向かって助走しているのですから,見守っておけばいいのです。あるいは,親がさっさと見限ってしまい別の道に向かわせようとすることは,子どもの育ちをいつまでも閉じこめておくことになるので,お勧めできません。

 育ちは初体験という挑戦の連続です。挑戦は育ちのジャンプに相当します。走って跳んで,跳ね返されて,また走って跳んで,ついに登り詰める,そのガタガタした繰り返しが,育ちの道です。もしも,お子さんが壁の前に立ちすくんでいるとき,大丈夫だからと安心させてやってください。

・・・壁に見えるものは,ぶつかれというサインです。・・・



《一緒に跳ぶとは,育ちの挑戦に慣れさせ,促すことです。》

 ○ママと一緒なら,子どもは大安心です。ママと一緒に,いろんなことをしたいと思っています。ママから,たくさん教えて欲しいと願っています。ママと同じことができたらいいなと夢見ています。お手伝いは,ママと一緒にするから,うれしいのです。

 ママとパパは,子どもにとって最も大切な目標です。ママのようになりたい,パパのようになりたい,それが育ちの意欲です。ママとパパの本当の姿を,間近で見せてやってください。それが子どもと一緒にするということです。


 【質問10-12:お子さんと一緒に跳んでみませんか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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