『モノねだる 子どものねらい 親の胸』
■はじめに
皆さんは,学校というところをどのように思っていらっしゃいますか? 勉強するところ,ですか? 大人の立場は教える立場ですから,学校は教えるところです。子どもは教えられる立場になり,学校とは習うところになります。学校は勉強するところ,それが通念です。
学校という呼称は,学ぶところと言っています。子どもが学ぶところであり,子どもが主役になるところなのです。教習所ではないと言えば,少し分かっていただけますか。詰め込み教育になってしまったのは,大人が教え,子どもが習うという上意下達の形が定着したせいです。学ぶという視点の欠落がありました。
生涯教育としてはじまった活動は,今では生涯学習に変わっています。環境が教育を必要としている時代は終わり,学習が求められる時代に発展して来たということです。読み書きそろばんという基本は教わらなければなりませんが,それを習得した後は学ばなければなりません。知識を覚えているうちは教育であり,知識を使うようになって学習に移行できます。環境が成熟したということです。
義務教育だから子どもは学校に行かなければならない,もしそう思っていたとしたら誤解です。昔貧しい時代に,子どもは労働力であり,学校には行かせてもらえませんでした。子どもの学ぶ権利が奪われていたのです。そこで,子どもを学校に行かせる義務が親に課されました。義務教育とは,親の義務なのです。子どもは学ぶ権利を持っています。
確かに最初は教育を受けなければなりません。掛け算は教わります。しかし,いつまでも教わる立場にいては学びを知らないままになります。総合学習や体験学習を通して"学び方"を習得しなければなりません。学校は,文字通りに学ぶところになろうともがいているのです。
【質問11-01:お子さんの主張を認めていますね?】
《「主張を認める」という意味を確かめておきましょう!》
〇甘やかし?
親は子どもが機嫌良く過ごしていれば心和むものです。子どもの笑顔は家庭を明るくしてくれます。ご機嫌を取り結ぶために,喜ばせようとします。好きなおかずを用意してやったり,欲しがるものを与えたりします。よかれと思う心根は親心ですが,ついついやりすぎてしまうことがあります。甘やかしてしまうのです。
甘やかすといえば,子どもの要求を際限なく受け入れることだと思われています。子どもを甘やかすことはいけないと知っていますから,要求を何でも聞き届けることのないようにしているでしょう。そのような甘やかしは自覚できるのでブレーキをかけることもできますが,無意識のうちに甘やかしてしまうこともあります。
子どもが明らかに要求をする前に聞き届けてしまう場合です。無意識の甘やかしです。要求を受け入れているわけではないので,甘やかしているとは思わないのです。子どもの要求を先取りしているだけで,基本的には甘やかしになります。子どもにすれば要求する必要が無いのです。親子ともに甘えを感じることはありません。
子どもは,赤ちゃんのときには要求することができません。ただ泣くだけです。何が欲しいのか,ママは懸命に察してあげようとします。やがて,ママは子どもが何を求めているのか,すっかりお見通しになります。泣かれる前に手を打つことができるようになり,穏やかな暮らしになります。その先回りが習い性になって,子どもが大きくなっても続けていきます。
子どもの成長に合わせて,親も成長していきます。その成長とは,保護者から養育者になることです。子どもは成長することによって,自分の主張を持つようになります。主張することが生きる力の発露だからです。子どもの主張をきちんと受け止めてやる役割,それは必ずしも聞き届けることではなく,主張という行為を受け止めるという役割を親は持っています。
子どものために親はいろんなことをしてやろうと願うものです。要求をするということは,裏返せば不満があるということになります。不満を持たせないようにしようという親の優しさは,子どもが自分は何が欲しいのかということを分からない状況に追い込んでいきます。庇うのではなく,共に主張をし合うことで,本当の親子になれるのかもしれませんね。
・・・言いたいことをちゃんと言わせましょう。・・・
〇聞き分け?
聞き分けのない子はきらいです。ママに叱られています。子どもは親の言うことを聞かないことがあります。拒否する,反抗するのも子どもの主張になります。もっとも親にとっては,扱いに苦慮する主張です。思い通りにならないのですから,わがまま言わないの,と封じ込めたくなります。
自己主張という言い方があります。自己を主張するということですが,はっきりと考えておくポイントは誰が主張するかということです。自己を主張するのは,もう一人の自分です。なぜなら,言葉を操るのはもう一人の自分だからです。お腹が痛いとき,どこが痛いのか,どのように痛いのか,他人に分かるように主張しようとするのはもう一人の自分です。
自己主張は自分の思いを相手にぶつけることです。しかし,それは始まりに過ぎません。相手からも主張が返ってくるからです。お互いの主張を付き合わせて,妥協点を探す手続きが繰り返されることで,実現に向けて話を進めることができます。いわゆる,駆け引きが必要になります。とてもまどろっこしいことであり,たいていは物別れになります。出直す必要が出てきます。
自分の主張と相手の主張を摺り合わせるのは,もう一人の自分です。相手の言い分をどこまで受け入れるか,その代わりにこちらの言い分をどこまで通すか,両方の立場を考えることのできるのはもう一人の自分です。自分の主張だけを丸ごと通そうとするごり押しは,わがままということになります。相手の主張を無視することで問答無用に陥ります。
もう一人の子どもは未熟ですから,交渉に負けないためには,自分の主張を押し通そうとすることで精一杯です。親が応酬してくる主張を分かる余裕がありません。そこでついつい,聞き分けのない子になってしまいます。聞き分けるというのは,自分と相手の主張を半々に分けることだからです。相手を立てながら自分も立てることで,両者が手を打つことができます。
もう一人の子どもは,主張を通すための理屈付けを覚えていきます。「皆が持っている,そうしている・・・」と主張してきます。これは意外と大人に効き目があります。大人の方に聞き分ける力を求めることになります。大人は詰まると,屁理屈であるとか,よそはよそ,と交渉を打ちきろうとします。そこで逃げては,大人が廃ります。
・・・聞き分けのよい子は,聞き分けのよい親の子です。・・・
〇おねだり?
子どもは親に対する気持ちの訴えを,モノに託して主張してくることがあります。表向きはモノをねだるという形になります。それほど切実に欲しいとは持っていなくても,あれを買って,これを買ってと要求してきます。自分の言い分を聞き入れてくれるか,試している場合があります。買ってやっても,すぐに飽きて放り出しているモノが増えてきたら注意してください。
自分の方を見て欲しい,そのためにモノをねだるという交渉に引き込もうとしているだけです。モノを買うかどうかについては,親は結構真剣に向きあってくれるからです。それが続くと,親の方もまたかという気になり,いい加減に受け答えするようになります。そこで,子どもはより要求をエスカレートしてきます。
衝突が起こります。子どもは親の気持ちが分からなくなります。自分の方を向いていない,見捨てられたと勘違いすれば,自棄になって悪さをしでかし,こうなったのは親のせいだと詰め寄ろうとします。それも自分の方を向いて欲しいという,それだけのためです。必ずしも一本道ではありませんが,そんな苦しい道が口を開けて待っていることだけは,知っておいてください。
豊かな時代には,意識しないままにモノで気持ちを表すことに慣れていきます。恋心は高価なプレゼントで表す,連れ合いへの感謝の気持ちはスイートテンダイヤモンドで表す,その流れで親の愛情もモノを買ってやれば表わせることになってはいないでしょうか? それが当たり前の時代になっているので,仕方のないことではあるのですが・・・。
自分の愛車に汚れた手で触った我が子を叱るパパを,子どもはどう思っているでしょう? お手伝いをしていて皿を割ってしまった我が子に,お皿の値段を理由に説教するママを,子どもはどう思っているでしょう? モノの方を大事にしている親に,親の心を感じるでしょうか?
いまどきモノ抜きに戻すことは不可能ですが,親の対応の仕方を工夫すれば,モノに頼ることはかなり減らすことができるはずです。手をかけてやることです。面倒だと思うようなことを,わざわざしてやることです。それも押しつけるのではなく,さりげなく。手を抜こうとするから,モノに頼ることになります。子どもも,余計な要求をする必要がなくなります。
・・・手間をケチるからおねだりが増えてしまいます。・・・
《主張を認めるとは,もう一人の子どもを認めることです。》
○個性化を実現する方策は,主張することです。自分の主張ができなければ,個性を作り上げることはできませんし,周りの人に認めてもらうこともできません。自分だけの個性化がわがままに堕落するのは,正当な主張をしようとしないからです。
必ずしも主張が丸ごと認められる必要はありません。主張していることを分かってもらえれば,主張の第一の目的は達成されているからです。社会性が育っていないといわれる背景には,分かってもらおうとする努力をしていないという分析があります。どうせ何を言っても聞いてはもらえないというしらけです。逃げていては始まりません。主張する子どもを受け止めてやらなければならなかったのです。
【質問11-01:お子さんの主張を認めていますね?】
●答は?・・・もちろん,「
イエス」ですよね!?